確かに神仏の信仰は、人に心の安寧をもたらします。しかし、宗教は人類のあらゆるもめ事の原因でもあります。そこで信仰とは何か、宗教とは何かについて調べました。注:回りくどい説明ですが、ご辛抱ください。
「信仰」は、goo辞書から引用します。
- 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「信仰が厚い」「守護神として信仰する」
- 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への信仰」「ブランド信仰」
信仰とは、(ある宗教を)信じて、自分のよりどころとすることです。あるいは、特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこととあります。つまりは、原因と理由はともあれ、妄信するということです。人は信じたいものを信じるということです。「鰯いわしの頭も信心から」ということです。 そのような信仰には思考停止が伴います。そこに理解も物の理ことわりもありません。
次に「宗教」についてgoo辞書から引用します。
《religion》神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。
神・仏などの超越的存在にかかわる人の営みとあります。つまり、原因と理由にかかわらず、人が無条件で信じる超越的存在にかかる人の営みです。まとめると、超越的存在について、妄信に基づく人の営みが宗教です。ですから、世にごまんと宗教があるのです。
これは実に馬鹿げています。天才たる岡潔が求めていたのがこのような何かであるはずがありません。
管理人はこれまで、G・アダムスキーとダニエル・フライの遺した資料、並びにヲシテ文献にある資料と岡潔の言葉を元に考察を進めてきました。その上で3つの科学(精神科学、弧理論による社会科学、物質科学)を求めてきました。この3つの科学をミクサタカラと呼んでいます。ミクサタカラはたとえであり、タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学に対応します。これまで、タマ:精神科学とカガミ:社会科学はわかったつもりでしたが、意外にもタマ:精神科学の根幹は宗教であったわけです。
ここまで岡潔の言葉を参考に考察を進めた結果、前々回の記事で、出てきたのは宗教だった訳です。前回記事「ヒトハアノモノ」を参照ください。思考停止は、統治者の求めるところであって、これまでの宗教は皆を思考停止させるために用いた道具に過ぎません。
ここで改めて、「わかる」ということについて考えます。岡潔はこれを2つの心(第1の心と第2の心)としました。まとめたのが次図です。
図1
第1の心の特性である「私という心」は、還元主義と唯物主義によります。つまり、わけることによりわかるとする考え方です。そのわかり方は、意識を通し言葉で言える心です。ところが、言葉は互いに規定し合うことにより成り立つ循環でありネットワークであり、外のない内であることがわかっています。これがヲシテ文献のシヰです。
本当の「わかる」は、第2の心にあります。そのわかり方は、意識を通さず言葉で言えないがしかし、その趣おもむきがわかるという心です。これがヲシテ文献のタマです。
岡潔は、山崎弁栄上人の言葉をひいて「本当に実在しているのは心だけだ。自然は心があるために映写される映像に過ぎない。」と述べています。さすれば、映像を映写する仕組みがあるに違いない訳です。その考察により得たのが「境界空間」という仮説です。
- 2020年9月28日『空間 とは境界であり、そのまま「場」である。』
- 2020年10月26日『ベクトルポテンシャル は「別の次元軸」の存在を示している』
- 2020年11月9日「自然科学 の限界」
- 2020年12月21日「自然が映像ならば、 近接作用 はあり得ない」
- 2021年1月6日「空間 とは何か? 場とは? 位置と点から考える」
岡潔は、自ら「本当の心は、理解や物の理ではない。」と言いながら、心が「わけることによりわかる」としたのです。これは間違いです。多くの宗教の教理経典は、この矛盾を持っているはずです。(十界など。)
一方で、岡潔は「自然数の1は決してわからない。」と述べています。ゼロと1を使う2進数で言えば、1とはゼロでない数ですし、ゼロとは1でない数です。つまり、互いに規定し合うことにより成り立つ循環です。数学も言葉と同じです。
人は物や事を言葉でわかっているのではありません。岡潔が云った第2の心は、言葉でわかるのではないのです。これには数学も含みます。げんに岡潔は「数学の使えない世界」について述べています。曖昧さを含まない言葉の一種にプログラム言語があります。同様に、曖昧さを含まないのが数学です。それでも第2の心はわからないのです。外のない内である第1の心が持つ本質的な限界です。
ここからは弧理論です。
弧理論において、宇宙の中心は宇宙にありません。大地の中心が地平面上にないのと同じです。大宇宙の中心は別の次元軸上にあります。しかも中心は2つあります。3D映画の映像元(映写機)が2つあるのと同じです。
M軸(物質的自然、物理空間)を横軸とし、図示すると次になります。
図2
これをヲシテ文献では、「カミ」と言います。カミとは次になります。
「ア」と「ワ」は、つながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。「ヒトハ アノモノ」であり、「ヒトハ ウナリ」。
「カミ」とは、自然は別の次元軸からの投影による映像であり、その元は「ア」と「ウ」よりなり、決して交わることのない「ア」と「ワ」から「ウ」、即ちウズ(渦:物質)が出来るということを示しています。そのアとワの構造が宇宙の大規模構造に表れてアワ(泡)状になっています。
それで、「ア」とは何かと問われたとします。すると次のように答える以外にありません。
「ア」とは「ワ」ではない何かであり、「ワ」とは「ア」ではない何かである。
つまり、アとワは互いに規定し合うことにより成り立つ循環だということです。「ア」も「ワ」も決してわかりません。
まとめると、人は別の次元軸からの投影による映像であり、心も別の次元軸にあるアとワによる訳です。2つあることはわかるが、それが何であるかは決してわかりません。
岡潔は「大宇宙の中心は情である。」と言いました。そして、その情について「わかつべからざる全体である」と言いました。以上を鑑みると「情」は、大宇宙の中心にある何かの働きであることがわかります。つまり、「ア」も「ワ」も仮に呼んだだけだと言うことです。
(仮に弧理論が正しいならば、)「何と呼べばよいかわからないにも関わらず、2つ在ることは認めざるを得ないし、物の理でわかるものではない何か」ということです。これが超越的存在の意味です。
これは冒頭に示した妄信ではありません。宗教といっても、人は別の次元軸からの投影による映像だから、その映像の仕組みを第1の心でわかろうとする努力を別の次元軸に求め続けられるということです。つまり、思考停止はしないし、妄信ではないということです。その上で、自然科学の問題点(還元主義と唯物主義の欠陥)を避けられるということです。言い換えると、心の仕組みと働きの健全性を保ちながら科学を追えるということです。これならば、2つの心が乖離することで心を病むことはありません。混乱と思考停止することも回避できます。
因みに還元主義の問題点を最初に指摘したのは、2017年2月15日 『「分ける」ことにより「分かる」のは、「物と事の関係性」であり、行き着くところは「統合失調(分裂)」だろう』の記事です。
実のこところ自然科学は思想であり、「皆が信じたいから信じている」に過ぎない営みです。
追記1/15 うまく言えないですけれど、人の心の仕組みと働き、並びに心の出所について、論理的に突き詰めていったら、「互いに規定し合うことにより成り立つ決してわからない何かから来ていることがわかった。」ということです。ですから、「兎に角、信じなさい。」という妄信と決定的に異なるわけです。その何かは、言葉で表現できない何かです。それは2つあり、仮に「ア」と「ワ」と名付けていますが、あくまでも仮です。「神や仏を信じなさい。」という妄信でありません。
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ご返信ありがとうございます。
引き続き基礎教養の学習に努めます。
またお会いしてお話を伺いたいです。
ですが理解ができていないことが多すぎます。
いつか有益なお話ができるようになりたいです。
自然科学がすべての基礎だというのは勘違いです。高野誠鮮氏が紹介されたように「寛容で懐疑的な態度は絶対失わず」に続けられるとよいと思います。貴方にお会いしてから次のことがわかりました。2019年「自然科学は循環」、2020年「第1の心は循環」と「境界空間仮説」、2021年1月「心の根源は2つからなる大宇宙の中心にあり、この中心は決してわからない」。1月にわかったのが精神科学の根幹であり、一つの山場です。
兎に角、中川さんには生活の基盤と科学の基礎を築く時期かと思います。アメリカ大統領選挙以来、100年か200年に一度の大変革期に入った感があります。私の仕事も6割を超えたようですし、あと少しと感じています。うまくいくかどうかわかりませんが、見守っていただけたら幸いです。
それと以前行った弧理論研究会は時期を見てOKです。連絡をいただけたら用意出来ます。
以前作った単極誘導モーターの実験を通して、どのように電磁気学が歪められたのかを考える機会があってもよいかと思います。動画にするにはハードルが高いテーマです。現場でモーターを見ながら検討・質疑する方がよい知恵が出るような気がします。境界空間仮説を説明する模型から理解が深まると思います。
ありがとうございます。
先日、メールにてご連絡させていただきました。
メールは届いていますでしょうか?
ありがとうございます。届いております。夏頃に、以前と同じ場所にてと考えています。
説明するにはよりわかっていなければなりません。ですから自分の為でもありますから、気になさらずに。時期を見て早めにご連絡いただければ場所を確保して内容を検討します。よろしくお願いいたします。現物を見るといろいろ参考になると思います。
かしこまりました。
ありがとうございます。
またご連絡させていただきます。
お久しぶりです。
この世界の宗教は支配者の大衆への
思考停止に使われる道具の一つだということは
同意します。
宗教?の話での質問です。
仏教の釈迦が唱えた「空」の説法と
ここで述べられている「境界空間」の認識は同じかと思ったのですが、正しいでしょうか?
昔からある有名な宗教の創設者(自分で宗教を始めろとは言ってない)は共通して宇宙への理解が高かったように思えます。
お元気ですか。進捗率でいえば60%というところです。キックオフにはまだかかりそうです。
どうも空は因縁あるいは縁起によるようです。縁起については、2017年5月13日『縄文哲学の核心「カミの仕組み」はお釈迦様の云った「縁起」と同じらしい』にあります。
同じかどうかはわかりません。しかし、当時より通信や映像機器の発達した現代の方がはるかに容易に到達できると考えます。皆はその機会を逃しているだけです。
映像の原因が液晶画面にないことを誰でも知っています。空間は液晶と比するに結果です。その映像元の原因を「空」と表現するならば、正しいと言えます。
2つある中心がアとワで、そのつながりにより出来るのが境界空間です。映像元の因はアとワにあり、結果が境界空間です。境界空間に物質は生じます。これがウ(渦)です。境界空間は、何もないようでいてポテンシャルはあるという状態です。ポテンシャルの原因は別の次元軸にあります。別の次元軸にある中心がアとワです。
但し、空といえば、空虚を思い出してネガティブな感じがします。境界空間はそのようなものではありません。wikiにある空(仏教)の解釈は釈迦が言ったこととは違う気がします。そんな否定的な解釈は後の馬鹿が言ったに違いありません。唯識論も間違いです。
要は、大宇宙の中心はアとワの2つあり、2つの心の起源はそこにある。しかし、アとワは、互いに規定し合うことによりなりっており、決してわからないということです。
「2つ在る」ことは確かだが、わからないということです。アとワさえ仮の呼び名です。ですから、これは妄信ではありません。
つまり、信仰によらない宗教です。信仰によらない宗教は単なる人の営みですから、修行などではありません。普通に生活する営みをいいます。その意味では宗教とは言えないです。
そうすると別の次元軸に第1の心(シヰ)による「わかる」を求め続けられますので、思考停止にならずに科学を続けられます。これが物質科学です。
結局、決してわからないながらも心の仕組みと働きについて考え続けられます。これが精神科学です。上記をそのまま解釈するなら宗教とは言えないです。妄信ではないからです。
ついでに、境界空間の仮説は、岡潔のいった空間と外村彰氏が証明したベクトルポテンシャルの要件を満たします。場と量子の関係も説明できます。
以上は、アダムスキー、ヲシテ文献、岡潔の資料により到達できます。3つの資料は同じ事を示しています。非常に面白いです。
追記 知人よりの手紙に書いてあることの要点は、「感謝」です。どうも2つの中心に持つべきは感謝であるようですが、まだよくわかりません。
追記 聖書の「アルファであり,オメガである」も同じ意味だとすると、その者はG・アダムスキーに資料を渡した連中と同じと推測されます。つまり、αもΩも決してわかりません。