記事や動画の作成は滞っていますが、 研究 は続けています。直近の成果としては、求めていた3つの科学:ミクサタカラのうち、精神科学についてです。弧理論による精神科学は、いわば信仰によらない宗教とでもいえるものであったという発見です。2021年1月12日の記事「岡潔が求めていたのは 宗教 だった」
管理人は勉強ができません。高校くらいまでの理科や物理は面白いと思ったこともありますけれど、大学からは計算が主でサッパリ興味が湧きませんでした。電磁気学や力学(熱力学や統計力学)、あるいは計算機の基礎である情報理論などは比較的面白いですが、量子力学や相対論など何だか興味が持てませんでした。相対性理論は少しも相対的ではなく、クオークて何だそれという感じでした。
よく考えてみると、以前から常に自分で考えて、自分の視点で物事を観るという癖が付いていまして、勉強として丸呑みにすることが出来ない性分だったのだと、今になって感じます。では、 研究 はというと”わからない”ものに対して”わかろう”とすることですから、まず自分の考えに合った研究対象を見つけて取り組む必要があります。すると、興味がある事、即ち自分の考えに合致した研究を行うようになります。
研究は12年目に入ります。現時点で振り返ると、勉強で丸呑みしていならば、自然科学の問題点に気付くことはなかったはずです。ですから、G・アダムスキーの資料もダニエル・フライの資料も久保田八郎氏の資料も、続く清家新一氏の資料も決して丸呑みしていませんでした。どこか距離を置いて観てきました。ですから、数学者岡潔の講演録も距離を置いて”自分に合った”部分しか読んでいません。仏教思想についても同じです。
G・アダムスキー、ダニエル・フライ、久保田八郎氏、清家新一氏、井出治氏、岡潔、ヲシテ文献のいずれも鵜呑みにしていません。
しかし、切っ掛けは、G・アダムスキーでした。G・アダムスキーは押し並べて以下の2つのことを与えています。(意訳です。)
- 人が「わかる」のは五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)によるとされるが、実は触覚は「tauchとfeel」にわけられる。人の心の核心はfeelにある。
- feelを磨くには想念観察が必要である。その姿勢を一言で言えば「弛緩と関心」である。
日常生活に忙しいので、そう簡単に想念観察などできませんけれど、研究生活に入ってから急速に研究に生かすことができるようになった実感があります。
管理人は2015年頃に数学者岡潔とヲシテ文献の存在を知りましたが、学生の頃に岡潔の言葉を読んだとしても何もわかりはしなかったはずです。 それは、私的には2015年頃だからよかったのです。
つまり、岡潔が勧めた「わからないものに関心を集め続ける」やがて、「努力感を感じない精神統一に至り、”情的”にわかる」。そして、「”情的”にわかるものを”知”的に言い表そうとすることにより文化は出来てくる。」と言いました。いわゆる「聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く」ということです。これが「情知意」の順に働くということの意味です。参考「【4】 禅の非思量」、「【27】 西洋人の創造」、 2019年7月13日の記事『数学者岡潔 の云う「 聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く 」ことの難しさ』、2019年9月4日 「自然科学者は 心の仕組み と働きに無知」
詰まるところ、岡潔の勧める「わからないものに関心を集め続け、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く」という態度はG・アダムスキーの「弛緩と関心」におなじです。2015年頃、岡潔とヲシテ文献の存在を知った頃には、このような「岡潔的思考」が身についていたということです。だから、自身の関心がある部分について、徹底的に考え続けることが出来るとともに「わけることによらず、わかることができる」のです。これは 研究 そのものです。決して、勉強という丸呑みの延長上にはありません。
岡潔のことを知っている人は大勢います。しかしながら、岡潔が何を考えて言葉を発したかをわかっている人は皆無だと感じます。特に、「自然数の1は決してわからない。」や「数は量のかげ」です。
余談です。だからこそ、岡潔が何故云わなかったのか気付くことがあります。人の五感でわかるのは物と事です。物には量があります。正確には「数は(物の)量のかげ」です。事には質があります。だから岡潔はなぜ、併せて「数は(事の)質のかげ」と言わなかったのか不思議なのです。情報とは何かというヒントがありそうです。「事」とは物の運動Pです。情報は物の運動Pと深い関係があります。時間は物の量ではなくて、事の質に過ぎません。時間という計量的なものはありませんし、時間は運動から作ります。参考「【5】 情の特色」もっと言えば、時間は角度から作ります。角度は量ではありません。事の質です。
- 物と事は一つの実体の異なる面。
- 物質と運動Pは一つの実体の異なる面。
- 時の現在と過去は一つの実体の異なる面。
- タマ(第2の心)とシヰ(第1の心)は一つの実体の異なる面。
- 具体と抽象は一つの実体の異なる面らしい。
タマは時の現在がわかります。これは静止画がわかるということです。シヰは時の過去がわかります。これは動画がわかるということです。ですから、シヰには静止画を記憶(情報)する仕組みが必要です。情報とは時の過去です。その一つが時間です。時間は運動Pの記憶に基づいて人が抱く観念です。また、時間もお金も抽象です。タマ(第2の心)でわかる具体とシヰ(第1の心)でわかる抽象が乖離すると人は病みます。これが弧理論による社会科学の根幹です。2つの心が乖離するのはダメです。地球の文明は2つの心が乖離する方(すべての抽象化)へ向かっています。岡潔が危惧した「間違った思想の洪水により人類が滅んでしまう。」と述べた事の意味がわかります。参考「【1】 このままでは人類は滅びる」
実のところ、このような「弛緩と関心」という方法(手法?技法?)を身につけることは極めて困難です。自身、何十年もかかっています。併せて静かな環境が必須です。勉強が出来るからと言って、研究が出来る訳ではないということです。「岡潔的思考」という言葉を使った記事が1件だけヒットします。参考まで。2019年7月22日「負のエネルギー の解釈の間違い Alexey Chekurkov(アレクセイ・チェカーコフ)の浮揚ディスク 」
はっきりしませんが、多くの研究者の方々は数学による研究が最大の成果を生むと考えているようです。数学は人を過度に抽象化へ導きます。その考えは多分間違っています。人はもっと時の現在に敏感であるべきと感じます。だからといって、数学を否定していません。むしろ、12進数が自然を知るに最適な数学システムであると証明したいと考えています。
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鵜呑みにしてしまうところがあるなと自分でも思うことがあります。
勉強は楽しいですが、膨大な情報量に戸惑いますし、取捨選択が難しいです。
私が参考としている資料で、様々な事が言われています。岡潔は「関心を集め続ける」などです。中でも一番シンプルなのは日月神示です。それは「気(キ)付く」です。これ以外にありません。大事な事は、分散しているということです。幾つかの無関係な資料の間で同じ事が書かれているならば、信頼性があがります。本当の事を知りたければ、幾つかを見比べるしかありません。
”何々一筋”というのはいただけません。勉強は節操のないくらいがちょうどです。だからといって、何でもありでは困ります。
実のところ、自然科学だけで完結しているとしては足りないです。自然科学に基礎がないからです。自然科学の嘘は、さんすう時計から始まっています。時間は量ではありません。角度は量ではないからです。すでに虫食い状態にあって、隙間がない自然科学を勉強して、その延長上に研究はないと感じます。自然が映像だとすると合点がいきます。
スプーンやオレンジの映像を見てオレンジとは何かとの疑問から、画素を調べても意味がないのと同じです。オレンジと画素との間には何の関係もありません。