「 信仰によらない宗教 」というより、科学である。

1月に気(キ)付いた「 信仰によらない宗教 」という呼び名がしっくりこなくて考えていました。参考2021年1月12日「岡潔が求めていたのは 宗教 だった

大宇宙の中心である「ア」と「ワ」について、在ることは確かですが、何かと問われると決してわからないのであり、そのアとワから出でたる2つの心とアとワがつながってもたらされる「ウ」よりヒトを生じさせるのです。これを「カミの仕組み」といいます。ここで、ウとはウズ(渦)であり、物質です。つまり、ヒトは2つの心(タマとシヰ)に物質がくっついて出来ているのです。

図1

とはワではないし、とはアではない何かです。互いに規定し合うことにより成り立ち、決してわかりようがない根源です。なぜこんなことになるかというと言葉自体が互いに規定し合うことにより成り立つ循環だからです。因みにシヰ(岡潔の第1の心)は、意識を通し言葉で言えますので、シヰは循環に過ぎません。だからこそ、決してわからないのです。

このような在ることはわかっていても、わけることによりわかる事はない何かについて、認めざるを得ないという存在をもって、信仰という訳にはいきません。ある意味、超越的存在ではあっても、それをして人の生きる営みを宗教というには違和感があるのです。

いろいろ考えた末に、これは科学だとの意識があります。(注※)従前、象徴としてミクサタカラと呼び習わしてきたタマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学のうちの精神科学です。精神科学という呼称はどうもベタすぎてダメでしたが、他の言い方がわからずに来ました。ここで、「信仰によらない宗教」というのもヘンです。”何とか科学”と呼ぶのがふさわしいと考えますが、名前はまだありません。

 大宇宙の中心「アとワ」によりもたらされた「ウ」の入れ物が「境界空間」です。参考までにサイト内を「境界空間」で検索ください。参考2020年9月28日『空間 とは境界であり、そのまま「場」である。 』 どうも、中心であるアとワが投影されることにより宇宙の大規模構造(泡構造)を形作っているようです。そのウ(物質)はまた、「場と量子」という関係を示しているのは偶然ではありません。場と量子は互いに規定し合うことにより成り立つ循環と言えます。即ち、全ての物や事は、カミの仕組みに発するが、そこから導き出されるのは科学だということです。物(物質)と事(運動P)は一つの実体の異なる面に過ぎません。


 

以下は冗談です。 物とは何かという疑問に対する答えです。場と量子は、鶏と卵と言い換えてもよいですし、従前、用いてきたスプーンと匙と言い換えてもよいです。

図2 スプーンは匙、匙はスプーン

あるいはかなり昔の記事に、2014年6月11日「鐘が鳴るのか撞木がなるか」としました。その鐘と撞木と言い換えても差し支えありません。

写真1

どちらも無くては成り立たないです。

 

最近、般若心経について調べました。すると「般若心経とは?専門用語を使わない和訳と、その意味」に以下がありました。「空の思想」から一部引用します。

玄奘訳に「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という有名な一節がありますが、サンスクリット語の大本などにはこの前に「色性是空 空性是色」などと訳される部分があって、三段階の説明となりました。経文を直訳すると下記のようになります。

(1) (A) 色は空性であり (B) 空性こそ色である
(2) (A) 色は空性と別ではなく (B) 空性は色と別でない
(3) (A) 色なら空性であり (B) 空性なら色である

似た文が6つ並んでいます。『般若心経』は読経や瞑想修行を目的として、リズムや繰り返しを重視して書かれているので、それぞれの文の違いにはあまり意味がないかもしれません。
(1)、(2)、(3)は表現は違いますが、論理的には意味はほぼ同じです。ただ、(A)と(B)については、インド仏教の伝統では下記のように大きな意味の違いがあると解釈されてきました。

(A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。

それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。

(B)は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。言葉による 認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、小乗仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。

これを観ると、を弄んでいるように見えます。本記事に示した本質に近いですが、的外れです。修行とか悟りとか智慧とか言ってますが、もっと簡単です。

色と空について、どうも境界空間に近いように感じます。境界空間仮説で、境界空間は(ウ:物質)の元となり人の五感でわかるが、しかし、量的質的にありません。でもポテンシャルはあるという空間です。だいぶツルギ:物質科学に近づいてきました。この境界空間から場と量子、鶏と卵、スプーンと匙、色と空を、そして、ヒトを生じさせます。般若心経で述べるべきは、修行法ではなくて、色と空の意味と出所(因)を説明すべきと考えます。既存の宗教は留まってはいけないようです。また、仏教について、多くの人手を渡ってきており手垢が付いてわかりにくいです。

級数も再帰も結果に見えます。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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