仏教の核心に近いところとして 仏 (budhha)があります。これを善導大師は、漢字の意味として”覚”と名付けました。2021年4月19日『「仏」はヲシテ文献にある「ア」の部分であるようだ』
人の五感でわかるのは、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚です。つまり、善導大師の”覚”が現代でもそのまま使われているということです。
岡潔やヲシテ文献のタマシヰ等との共通点について、上記の記事の復習の意味で再掲します。
- 善導は、インドの(buddha)について、漢字の音で「仏」をあてたものであり意味を考えて「覚」と名付けた。→視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚
- 岡潔 第1の心・・・意識を通し言葉で言える。
第2の心・・・意識を通さず言葉で言えない。
→情的にわかるものを知的に言い表すことにより文化はできる。→情・知・意の順で働くとした。※↓ - 言葉は、互いに規定しあう循環であり、ネットワークであり、外のない内である。
→第1の心は、すべてを覆っているが、外へは一切出ていない。 - 仏教においては(五蘊 六識 六根 六境 六塵・・)と呼んだ。
- 一方でG・アダムスキーは、五感の内、触覚をtouchとfeelにわけた。feelが五感にかかっている。
- ヲシテ文献では(ヰクラ ムワタヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコエ
あるいはイツイロノ ハニモテツクル モリノカミ)としながら、タマ+シヰとした。
要は、心の仕組みと働きをG・アダムスキーや仏教のように5+1=6と捉えるか、岡潔のように1+1=2と捉えるかの違いでしかありません。つまり、意識を通す(図の上段)を下支えしているのが心の本体であるということです。 因みに日月神示では、仏(あるいは 覚)について、現代人に最もわかりやすい言葉として「気(キ)付く」を多用しています。
まとめると、 岡潔 は「大宇宙の本体は”情”」だとし、お釈迦様は” 仏 (budhha)”とし、善導大師は”覚”と名付け、そして、ヲシテ文献では”タマ”であったわけです。岡潔の言った2つの心は、仏教の”五蘊 六識 六根”と何ら矛盾しないのです。
ここから凄く不遜な言い方になります。お釈迦様はおおよその事はご存じだったかも知れませんが、ヲシテ文献のカミの仕組み(つながり、もたらし、生じさせる。)=「アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトはアのもの。」について、十分に説明なされたとは思えません。ヲシテ文献にある核心の方がよほど理解が容易です。仏教では何を気(キ)付けというのかわかりません。
アとワは互いに規定することで成り立っているので、大宇宙の中心であるアは決してわかりません。これが第1の心の限界(外のない内)です。奇しくも岡潔は「自然数の1は決してわからない。」と言って、大宇宙の本質を一言で言い表していますので凄いです。
※ 情・知・意の順で働きますので、情的にわかってから、後に知と意が来ます。だから、知識・意識になるので、この点でも納得です。実のところ、「五蘊 六識 六根 六境 六塵・・」と漢字にするとその意味するところはぼやけてしまうのは、漢字の致命的な欠点です。”わかった”ような気になりますが、その実、各人の持つ漢字への意味合いは異なるということです。
その点、ヲシテ文献の基本であるヨソヤコヱ(48音韻)は、人の五感でわかる物と事を音素である母音と子音に振り分けて意味づけしていますので、とてもシステマティックです。参考まで。5つのクラも6つのワタも、あるいは5つのイロもカウントの仕方の違いでしかありません。因みにイロについて、カラーの色ではなくて「いろ品:たくさんの種類」があることを指します。ですから、イツイロは5種類の物という意味です。
出典:日本ヲシテ研究所(C)池田満
ついでながら、物と事は別の次元軸上にある一つの実体の投影による映像です。2つの心はどう考えても別の次元軸に起源があります。このあたりの説明が物と運動の本質です。
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