前回の記事で、第1の心について、すべてを覆っているが、外へは一切出ていないと記しました。 岡潔 は、”自然科学者が考える自然”について、簡単な模型であって、自然そのものではないと言います。参考【3】五感でわかるもの。
そういった自然科学者の考える自然について、2つある心の内、自然科学者は第1の心しか知りませんので、(自然科学者にとっての)自然について、第1の心は物質的自然界の全部を覆っているが、それより外へは決して出ていないと言いました。参考【1】2つの心。
岡潔 は、難しい言葉使いをしていませんけれども、実のところとても深いです。これを管理人は「外のない内」と呼んでいます。サイト内検索では、”外のない内”を含む記事は56件出てきます。初出は2017年11月24日の『自然科学のいう「非科学的」とはどういうことか?』でした。 この頃は、開放形という言葉を使っていますが、あまり適切ではないように感じます。現在は「在るけれど、量的質的になく、かつ位置を持たない。」とでも表現した方がよいように感じます。
過去記事にも書きましたが、2010年に研究を始めてすぐに、「外のない内」あるいは「位置を持たない」という表現を求めていました。当時は、「宇宙の外については、一切言及していない。」としか表現できませんでした。それが下図です。
図1
図において、空間には2つのポテンシャルがあって、その輪郭は「宇宙の外については、一切言及していない。」と感じ、これが「外のない内」という表現にピッタリだとわかったのは、岡潔→山崎弁栄の関係資料という流れからでした。それまでは、お釈迦様の手のひらから出られない孫悟空の寓話に例えていました。参考 2015年4月8日『「軌道電子に働く力」と「単極誘導に生じる力」の違い』。
つまりは、岡潔も山崎弁栄の思想から自然科学者が考える自然について「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」という考えに至ったのではないかと推測します。これが「外のない内」です。
繰り返しになりますが、これが第1の心、即ち意識を通し言葉で言える心の限界です。何故なら、数学を含む言葉は”互いに規定することで成り立つ、循環・ネットワーク”だからです。岡潔はこのように回りくどい解説はしませんが、「自然数の1は決してわからない。」という言葉に凝縮されています。参考「【6】 数学の使えない世界」
動画1
図2 自然科学は循環であり、外のない内。
特に理系の方々にお気づきいただきたいのは、数学での計算、論理的思考が人の持つ心の仕組みと働きのすべてではないことです。人とは何かの基本がなければ、科学の発達は覚束ないと確信しています。岡潔の危惧していたのはまさにこの点です。そして、文系の方々にお気づきいただきたいのは、一つの資料を読み解くだけでは詳しくすることに限界があるということです。例えば、仏教の五蘊・六識・六根・五塵などは、そのままでは意味不明です。漢字で書かれていますから、日本語で語句の解説があればわかった気になるだけだと感じます。それにしても、日本語のふる里とでも言えるヲシテに示される核心は図抜けています。これらの資料を読み比べて、漸くわかってくるものがあります。
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