これまで日月神示について、幾度か参考にしてきました。過去記事を” 日月神示 ”でサイト内検索すると52件出てきました。以下に最近の3つをあげます。
- 2018年6月14日「日月神示 ひふみ神示は、なぜ弧理論の参考になるのか?」
- 2020年10月21日「日月神示 で気になること」
- 2021年5月21日「日月神示 (ひふみ神示)の意味合い」
たぶん、これまでほとんど指摘されてこなかった事も含んでいます。例えば、 日月神示 がヲシテ文献のフトマニの流れを汲むことや、当サイトでも重要なワードである「気(キ)付く」が 日月神示 で頻出していること、あるいは「一二三(ひふみ)、三四五(みよいず)、五六七(みろく)」の意味がわかってきたことなどがあります。
善導大師がbuddhaをして”覚”と名付けた件で、”覚”は「気付く」だとの記事を書きました。先日、ある方から「気(キ)付く」について、正しくは「気付かされる」だとの指摘を受けました。
すぐに思い出したのが仏教で言うところの「他力」でした。管理人は、他力について30年ほど前から意味を知っていました。 しかし、本当の意味で納得したのは、研究を始めてから何年か過ぎてからでした。
実のところ、岡潔の云った「わからないものに関心を集め続ける。情的にわかるものを知的に言い表すことにより、文化は出来てくる。」という態度はまさに”他力”です。
これは完全に待ち受けの状態です。いつどのようなタイミングで”情的にわかる”かは自身にもわかりません。勿論のこと、そのための準備は怠りません。ただ、わからないものに関心を集め続けるだけです。
因みに、管理人はヲシテ文献の「イクラ ムワタ ヲ ネコヱ ワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ」(日本語の元となる大和言葉のさらに基礎である48音韻の起源)については、2015年頃から最近まで「関心を集め続け」てきました。とても長い期間を要する行為です。
さて、ひふみ神示の全文において、”気”で検索すると394件あります。その中で、以前から気になっていたことがあります。その”気”の使い方が矢鱈に上から目線なのです。
「気のついた、気がつかんか、気をつけて」などの語句が多いのです。試しに全文から”気づ”で検索すると12件ありました。以下に例記します。
- まだ気づかんから木の型をやったであろうがな、
- 早う気づかんと気の毒出来るぞ。
- 自分で世の中のことやりてゐるように思うているが、みな神がばかして使ってゐるのに気づかんか、気の毒なお役も出て来るから、早う改心して呉れよ。
- 国盗りに来てグレンと引繰り返りて居らうがな、それでも気づかんか。
- 神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。
- 気づいたことから早う改めて下されよ。
- 顔まで変ってゐるのに未だ気づかんのか。
- 病気に皆がなってゐるのに未だ気づかんのか。
- 新しき武器気づかんのか。
- われがわれがと思ふてゐるなれど、皆このほうがかげからさしてゐるのに気づかんのか。
- みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。
- 己のためのみに為してゐることに気づかんのか。
他にも似た語句がたくさん出てきます。
- 気をつけて呉れよ。
- 気をつけてあるのにまだ目さめぬか。
- 気つけるぞ、
- 呉れ呉れも気をつけて置くぞ。
- まだ気が附かんか、
- 気つけて呉れよ。
- よく気つけて居れば、
- くどう気附けてゐることまだ分らんか。
- 気(け)もない時から知らしてあるから、
- 気がまだつかんのか、
- 気つけてあろがな、
- くどう気つけてゐるのざ、
これでもかというくらい、はやく”気付け”と促しています。つまり、日月神示は向こう側から諭しているのです。これは”他力”の裏の表現だとも考えられます。これで、日月神示に「気付かされる」という流れが理解できます。つまりは、 日月神示 は他力を説いているわけです。 面白いですネ。
現代は、学校のテストで、予あらかじめ答えがあるとわかっている問題ばかりやっているので、「わからないものに関心を集め続ける」という行為がどういったことなのかさえわかっていない状態にあります。これでは気付かされるというのは、ほぼ絶望的です。
注:ここで、”気付く”というのは、「新しい知見を得る」という行為のことです。確かに、「郵便受けに手紙があることに気付いた」というのも該当しますが、「新しい知見を得る」というのが、本来の「気(キ)付く」行為です。ヲシテ文献で言うところの”トのヲシテ”です。
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取りに行くことで全てがわかりうるという驕りが現代の自然科学の限界でもあり、
自分にも染み付いている感覚だなと思います。
急がず焦らず、意欲的に関心を寄せて
“気付く”という真髄をいつか感じたいです。
昔、ある研究者のサイトで”実験で望む結果をひねり出す”ような表現をしていた記憶があります。「神は細部に宿る」というのは嘘です。全体を漠として眺めることが必要だと感じます。何かに引っかかりを感じたら、繰り返し考え続けることです。
宇宙人アランの「物質もエネルギーも一つの実体の異なる面」という言葉を「かむかふ」ことで10年経ちました。最近E=mc^2 と ΔxΔp>=h/4πは同じ原因の異なる表現ではないかと気付きました。時間という観念が成り立つのはこの定数から来ているようです。
ダニエル・フライの事件があって70年を過ぎています。岡潔の「わからないものに関心を集め続けて、努力感のない精神統一に至る」がG・アダムスキーの弛緩と関心に同じだということは推して知るべしです。宇宙人やUFOなど荒唐無稽と断じる前に、これらについて「かむかふ」必要があります。
如来の意味も唯識に繰り返しがあることも、発振や共鳴、フラクタル、あるいは不確定性原理もすべてが別の次元軸の存在を示唆しています。
他力を別の言い方をすれば、「すべては運動せざるを得ないのであって、静止は例外中の例外である(発散トーラス~楕円磁場)」と言えます。しかし発散トーラスは結果です。原因はアにあります。おそらくアウワの”ア”が気の元であって、ヒトハアノモノです。ヒトが気(キ)付くのを待っているのでしょう。これを説いたのが日月神示です。何せ日月神示はフトマニの流れにあります。
どうも弛緩(リラックス)と緊張(集中)は一つの実体の異なる面ではないかと感じます。無私の心と私という心は一つの実体の異なる面かも知れません。2つは両立しません。ヲシテ文献研究者の池田氏によるとアメノミヲヤには神仏のような人格性がないとのこと、アメノミヲヤとアウワの”ア”との関係はわかりませんが、無私の心は人格性がないのに近いです。整合性があります。