かねてより、人は物や事を 言葉 でわかっているのではないと強調してきました。その意味をご説明します。
岡潔は「わかる」ということについて、次のように述べています。【4】情のメカニズムより。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
「わかる」には2種類あると言います。これを第1の心と第2の心と呼んでいます。【1】2つの心より。
人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心は私というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。
それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。
欧米人はこの第1の心しか知らない。しかし人にはもう1つ心がある、第2の心。心は2つしかないのです。1つじゃない、もう1つある、第2の心。この第2の心は頭頂葉に宿っている。この心は無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、直にわかる。
理解や物の理ことわり、即ち、知的にわかるという前に、情的に「わかる」というのがなければ一切は存在しないと主張しています。まとめます。
- 第1の心。物の理、理解。知的にわかる。意識を通し言葉で言える。私わたくしという心。
- 第2の心。意識を通さず言葉で言えないが、しかし、そのものの趣おもむきが直じかにわかる。無私の心。
大きな違いとして言葉で言えるか言えないかの差があります。第2の心について、言葉で言えない心の世界として「数学の使えない世界」と述べている箇所があります。
では、言葉とは何かです。次は何かと問われたとします。
写真1
国語辞典を3回ほど調べて図にします。
図1 匙はスプーン。スプーンは匙。
単純に 言葉 は循環でありネットワークであり、言葉でわかり切るには、辞書を際限なく調べる必要があるとわかります。これを外のない内と呼びます。つまり、人は写真1を言葉でわかっているのではないのです。
岡潔の云うとおり、まず「意識を通さず言葉で言えないが情的にわかる」がなければ一切は存在しないのです。
ここで、岡潔は「わからないものxに関心を集め続ける」としました。「【4】禅の非思量」 xに関心を集め続けることによって、まず「x」が情的にわかり、これを知的に言い表すことにより文化は出来てくるとも述べています。
図2 わからないxを知的に言い表す。
「知的にわかる」とはxを循環・ネットワークに取り込むということを意味します。これが言葉で言えるということです。大事なのは如何に言葉が巨大な循環・ネットワークになろうともその構造は絶対に変わらないということです。赤い破線は、知的にわかったxについて、既知の言葉で関係づけたことを意味します。
では、自然科学のうちである物理学について考えます。物理学の大きなテーマに「物」とは何かがあります。
ちょうど、図2に「物」があります。物とは物質であり、物質とは元素であり、元素は原子からなり、原子は基本粒子(陽子・中性子・電子)からなり、さらに素粒子へ至り、ついに「場と量子」に到達しました。
図3 物とは何か
この間、200年以上経過しています。場と量子を図1に書き込みます。
図4 「匙とスプーン」対「場と量子」
物理学者達はわからないものに関心を集め続けた結果、場と量子に到達しました。
図4を見ると、「場と量子」の関係は「匙とスプーン」の関係と似ていることに気付きます。勿論のこと、図4には、場とは何かや量子の種類など多くの事柄が抜けています。しかしながら、互いに規定し合うことにより成り立っている関係は変わっていません。
そもそも人は写真1について、言葉でわかっているのではないのです。写真1は何か?と問われて、「場と量子からできている」と答えてもまったく意味がないことは誰でもわかります。
ついでながら、理論物理学者であるカルロ・ロヴェッリは、著書「時間は存在しない」において、地球上に猫が生じることの不思議を書いていますが、彼らの理論とネコとは何の関係もありません。サイト内を「カルロ・ロヴェッリ」で検索ください。20件の記事がでてきます。
上記に示した第1の心の流れ、つまり第1の心の向かう方向について、ある科学者は次のように述べています。
科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める
そして基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。
略
たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。
正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。
だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。
君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に変えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほどに複雑になるんだ。
君たちにとって最も必要なのは、自然の基本法則または事実がまったくかんたんだということを発見することだ。
岡潔は自然科学について、めいめいが科学した結果の寄せ集めだと言いました。視野は狭すぎて幹全体を見通せないとはこのことですし、それが原因で科学がひどく複雑になっています。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほどに複雑になるのです。その典型がAI(人工知能)ですし、多くの巨大科学です。
わけることによりわかるというのが還元主義です。言葉は互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ネットワークですから、還元主義の行き着く先は抽象だということです。だから、カルロ・ロベッリは、物理法則を理論として記述できたが、なぜか地球上にネコが生じると記したのです。注:自然科学には、ほかにも問題がありますが、ここでは省略します。
実は、当サイトは2つのブログランキングの”自然科学”部門に登録しています。しかし、これまでの記事は、およそ自然科学とかけ離れた内容の記事を書いてきました。なぜ、このような一見、文系のような記事を書き連ねてきたかというと「科学は、基礎に人の心の仕組みと働きへの理解が”絶対的に”不可欠だ」との確信があるからです。岡潔が最後まで警鐘を鳴らし続けたこのと真意はここにあると感じます。
自然科学が量ではない時間を用いた循環だというのは問題の一側面に過ぎません。(角度から作った時間は量ではありません。)【5】情の特色より。
時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。
第1の心の特性は、循環・ネットワークです。ですから、数学も自然科学も物理学も、先般より書き連ねてきた唯識論もすべて循環の構造を持っています。勿論、弧理論も同じです。
この第1の心が持つ「循環から抽象へ向かう」を回避するには、循環である第1の心の向きを別の次元軸に向けるしか無いと確信しています。
つまり、私たちが意識し認識している世界を(際限の無い抽象化を避けつつ)理解するには、自然あるいは世界が別の次元軸からの投影による映像だと考えるしか方法が無いということです。これは岡潔が山崎弁栄上人をして「本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。」と紹介した言葉そのものです。【3】西洋の唯物主義より。また、ある科学者が云った「自然の基本法則または事実がまったくかんたんだということを発見」することに等しいです。
追記7/20 数学も物理学も多くの学問は、エレガントで美しく、あるいは対称性に魅せられて、学者を惹きつけます。しかし、その行き着く先は抽象に過ぎません。検証も出来ない理論に意味はありません。管理人は、とても到達できませんけれど、彼らは一般人に対して、途轍もない優越感を持てるのだと感じます。
匙 と スプーン 写真1
場 と 量子 物理学の到達点
ア と ワ 大和言葉の元であるアワウタの始めと終わり
3つの組み合わせの間に何の関係もありませんが、互いに規定し合うことにより成り立っているという点では同じです。
匙とスプーンは、写真1を意味する具体です。場と量子は抽象です。アとワは、具体である物事のすべてを言い表せる日本語の起源です。
最近気付いたこと。日本語の元であるヨソヤコヱ(アワウタ)には、神仏など超越的な何かを含んでいません。逆に言えば、他国から入った神仏もヨソヤコヱでは、物と事の内に整理されるということです。神道に教理経典がないのも納得します。日本語そのものがフィルターです。日本ではハロウィーンも単なるコスプレになります。2018年10月24日『科学の始まりである 魔法と錬金術 は「病む」の始まり』
参考。 ヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)の”アワ”について、”ア”は物と事のはじめであり、”ワ”は物と事の終わりを意味します。
図5 アワウタ:物と事を5母音と10の子音に対応させた。
アカハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。