岡潔 による次の言葉は一見したところ、矛盾しているように見受けられます。 岡潔 講演録での言葉、【1】2つの心より。
人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心は私というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。
それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。
「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」という言葉について、山崎弁栄記念館のサイトから「外のない内」と同義だとわかりました。
言葉は互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ネットワークです。例えば次図がそうです。
図1 わからないXに関心を集め続ける→Xを既知の言葉で言い表すことで発見がなされる。
第1の心の特性は言葉で言い表せるということです。
言葉で言い表すとは、図1の様であって全部を覆っていますが、そこから一切出ていません。数学を含む如何なる言語も同じです。最近では唯識論にも繰り返しが表れるとのお話しを聞きました。ですから、如何なる理論も「全部を覆っていますが、そこから一切出てない」のです。如何なる理論も基本は複雑な構造を持つ繰り返しに過ぎません。その行き着く先は抽象です。
「五感でわからないものはないとしか思えない」というのが唯物主義です。【3】西洋の唯物主義が参考になります。 しかし、人には心が2つあります。それが言葉でわかっている以外の「わかる」です。
で、2つの心が何処にあるかが問題です。
これまでの脳とAI(人工知能)の比較から、2つの心は脳の構造の内にはないことがわかっています。(脳は処理系であるとともにプラグ、もしくはターミナルであるようです。過去記事を参照ください。)すると第1の心の特性である「言葉でわかり、かつ生命維持の欲求がある(注↓)」ととともに第2の心を満たすには、別の次元軸の存在を想定する以外に矛盾を解消する方法はないと考えます。
つまり、2つの心は別の次元軸上にあり、自然(宇宙:空間)は2つの心があるために映写される映像であるということです。サイト内を”人工知能”で検索ください。関連記事が出ます。
別の次元軸上にある2つの心が映写されることにより自然ができあがっていると仮定するならば、岡潔の言葉「(第1の心は)物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。(かつ、第2の心が在る。)」を満たします。
2つ心について、別の次元軸の存在を仮定するならば、矛盾しないと考えます。
(注)生命維持の欲求 =岡潔の言葉『私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。』 ヲシテ文献で言うところのタマ+シヰのシヰです。シヰは欲し欲しいのシヰです。強いるのシヰです。
角度から作った時間は量ではない。なぜなら角度は量ではないから。
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