この 時間 に関する記事には、かなりな前提があります。
数学者の岡潔は 時間 について、おおむね次のように述べています。
- 時間 という計量的なものはない。
- (自然科学者は)運動に比例して起きると勝手に決めてかかって、そういう時間はあると思って、時間はわかると思っている。
- 時には現在と過去がある。
- 現在は次の現在に置き換わり過去となる。次々と過去に置き換わり、そういう意味では未来はない。
- 時は過ぎゆくという属性があり、その性質を観念化したのが時間である。
これらをまとめると次になります。ただし、以下は岡潔による時間に関する以外の言葉も含んで考察したものです。
- 時間は太陽が地上にさす光の角度から作る。
- あるいは、物質の運動、例えばセシウム原子の振動を数えることにより時間を作る。
- 角度は量ではない。
- 従って時間は量ではない。
- だから、時間は10進数による12の倍数。
- 時間は数で表される”知”であるから「情・知・意」のうち、知識と意識に属する。
- 時間は時の現在を含まない。
- 従って、時報は過ぎてからしか知り得ない。
- つまり、時間は意識を通し、言葉で言えるから第1の心の表れである。
そのほかに岡潔は山崎弁栄上人の言葉を引用し、自然が映像であることを認めています。
- 自然は心があるために映写される映像に過ぎない。
- (自然科学は)無から有はなく、有は無へ帰さないという前提でやってきた。
- ここへきてこの前提を見直す時期にはいってきた。少なくとも幾つかの素粒子は映像と言ってよい。
しかしながら、岡潔は「自然は映像」と認めながら、映像の仕組みまで考えていなかったようです。
自然が別の次元軸からの投影による映像だということを指摘した科学者がいます。
アインシュタインの特殊相対性理論について、ある科学者が次のように述べています。
君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。
数式とはE=mc2のことです。この数式の説明に”映像”という言葉は使っていませんけれども、映像の仕組みについて次のように述べています。
二つの次元を持つ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面をあらわす。次に君がその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見るだろう。
図示すると次になります。
図1 君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。
図2 一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっている
この別の次元軸からの投影の角度について考えます。
別の次元軸上にある実体の投影の角度はM軸上にある物質の運動に比例します。(非線形) 運動から時間を作りますので、運動は時間に比例することになります。
投影角 ∝ 運動 ∝ 時間
例え岡潔が「 時間 は量ではない。運動は時間に比例するとは限らない。時間は人が抱く観念に過ぎない」と言っても、おおよそ電車も定刻に来ますし、時間に従って生活することに納得しています。この違和感の原因は、投影角が原因であるからのようです。
ついでながら相対性理論は時間を光速度に置き換えましたので、「時間→光速度c」です。でから、上記の数式E=mc2において、cの二乗が定数になり得たのだと考えます。参考。「相対論物理学者に捧ぐ その4」
だから、物質はエネルギーに転換するという実験事実が成り立つのだと考えます。つまりは、実験と理論は合致しているが仕組みは違うということになります。
さらに追記するならば、素粒子の質量mをGeV/c2で求めるのも実験と理論は合致しているが仕組みは違うということになります。
それから素粒子は”物”ではなくて、”事”です。事には波があります。波には波動や孤立波(ソリトン)があります。電磁波も物ではなく事です。また、事には熱力学系と情報系があります。
運動Pは投影角の表れですから、情報は投影角そのものかも知れません。と同じく運動Pが熱力学系であるのは納得です。
動画1 熱力学的エントロピーと情報エントロピーは、同じ事
永らく情報とは何かについて考えてきましたが、ここらあたりがヒントのようです。
追記9/22 過去にも書きましたが、自然が映像ならば、素なる領域(あるいは場)と素なる量(あるいは量子)に全宇宙の情報が詰まっているという考えは間違いです。
例え話です。 次はニュートンのゆりかごという玩具です。
gif1 ニュートンのゆりかご
映像の一部を拡大すると次になります。
写真1 映像として金属のボールは接しているが、画素には関係がない
映像としては金属のボールは接しています。しかし、画素とボールの間にはまったく関係がありません。何より、画素にニュートンのゆりかごについての全情報が詰まっているなどということはあり得ません。画素に注目すると「接する」というマクロで当然のことがミクロ(画素)の領域ではあり得ないことがわかります。(つまり、力は近接作用によると言えない。)
例えたのは、 古典力学=映像(マクロ現象) で、量子力学=画素(ミクロ現象)という対比です。
量子力学ならびに、その先にある素粒子物理学は、いわば画素と画素の近傍にかかる現象を解析しているのであって、ミクロの現象と理論が合致しているとしても、(マクロの)映像である金属のボールの動きとは十分にはつながりません。
物理学について感じる違和感の原因は、この辺りにあります。ついでに、ある科学者の言葉を紹介します。
たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。
正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。
冒頭の言葉と考え合わせると、「電子と光の波(電磁波もしくは光子)は一つの実体の異なる面に過ぎない」となります。電子の運動により質量が視界から消えた(次元を失った)ということです。質量が転換したのではありません。(自然が映像ならば、です。)
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