物理学者たちが追い求めてきた”物質とは何か?”という問いに対する彼ら自身の答え(途中経過?)が 場の量子論 です。(量子場の理論、場の理論などの呼び方があるようです。)
管理人自身 場の量子論 をよくわかっていませんけれども、いろいろ調べると琉球大学理学部物質地球科学科による「量子場の理論」がわかりやすく、まとめると次のようです。
- 物質は「場」と呼ばれるものの振動である。
- すべては「波」でできている。
- 素粒子は「場」による。
- 例:電場、磁場
- 粒子は「場」の振動
- つまり、粒子は場の励起状態
- ただし、場=粒子 ではない。
- 真空は「何もない」ではない。
- 振動する何かはあるが、振動が最低エネルギー状態になっている。
- それが真空
- 物質が波の性質を持っているとして形成されたのが量子力学
- 「原子核という粒の周りを電子という粒が回っている」というイメージは正しくない。
そして、「場」をwikiで調べると、「空間の部分」であることが書かれています。歴史的な流れをわかりやすい図にしたのが次です。
このままではわかりにくいのですが、管理人がまとめると次のようです。
- 空間の部分である場の励起状態が量子である。
- 量子は素粒子物理学の素粒子に対応する。
これで、場と量子の関係がわかります。これまで管理人が素粒子を孤立波(ソリトン)と説明してきましたが、ソリトンと励起状態とは異なるようです。しかしながら、弧理論の主張はもっと本質的です。
- 物と事は別の次元軸上(E軸)にある実体の異なる面に過ぎない。自然はE軸からの投影による映像(M軸という。)である。
- 物には量がある。
- 事には質がある。
- 物とは基本粒子(陽子・中性子・電子)の3個である。
- 事とは運動Pである。
- 運動Pには、次がある。
- 時間(時間は物の量ではなく事の”質”である。)
- 速度(量ではない時間をパラメーターとする”事”)
- 加速度(同上)
- 波
- 波動(量ではない時間をパラメーターとする”事”)
- 素粒子(波の一種)
- 熱
- 温度
- 圧力 etc.
空間をM軸(物質面、物質軸、岡潔の言う物質的自然、あるいは宇宙)といいます。図にすると次です。
図2 物質と運動Pは一つの実体の異なる面に過ぎない
弧理論によれば、素粒子は波の一種であり、それが孤立波であっても、場の励起状態であっても同じです。つまり、素粒子は”物”ではなくて”事”です。どうも、場の励起状態が量子力学の波動関数に同じであるようです。
つまり、空間の部分である場の励起したのが量子であり、そのまま素粒子であるという考え方です。
弧理論においては、”波”の表現が何であれ同じ”事”です。弧理論は、量子力学と根幹で違うということです。 ソリトンについては、孤立波(ソリトン)の発見を参照ください。
ここで、自然科学の問題点はいろいろありますが、主なものを挙げます。
- 自然科学は、時間と空間を自明としているが、岡潔が言うように”時間・空間は簡単な模型であって自然そのものではない”。
- 自然科学は、「時間とは何か。空間とは何か。」を何も考えていないし、説明していない。
- 物質の運動Pに基づく角度から作る時間は量ではない。
- 時間について、「意識を通し言葉で言える」という点において、時間は時の現在を含まない。
- 場の元となる空間が映像ならば、近接作用はあり得ない。
- 相対論の帰結であるE=mc2を用いて”波”の一種に過ぎない素粒子の質量を求めることは本質的に無意味である。
- たとえ、理論と実験が精密に合致するとしても、量ではない時間を用いて記述している点において、物の量と事の質を混同している。
ところで、肝心なのが「場と量子」の関係です。ここで話はガラッと変わります。
- 場のある状態が量子であり、量子は場よりいずる。
自然科学の問題点として、”場”の元となる空間とは何かを説明していません。時間についても説明していません。しかし、本質はもっと別にあります。
- 数学を含む言葉が持つ特性
これまで、散々ご説明してきた「匙とスプーン」の関係は「場と量子」と言葉が持つ特性の本質に係わっています。岡潔は「わかる」には2つあると言いました。
- 第1の心。理解、物の理ことわり。意識を通し言葉で言える。還元主義(わかるの語源は”わける”)、わけることによりわかる。わからないものを部分にわけることによりわかるとする。わける前もわけられた部分もまたブラックボックス。ブラックボックスはどこまでも続く。
- 第2の心。情による。意識を通さず言葉で言えないが、しかし何となくその趣おもむきが直に”わかる”。
どう考えても、人はブラックボックスをわけることによりわかっているのではありません。
図3 わけられた部分もまたブラックボックスであることが永遠に続く
管理人は、例として「匙とスプーン」をあげました。仏教にある如来と場の理論との関係もあげました。
- 2021年9月6日 場の 量子論 と如来
数学という”思考の道具”の言葉としての働きについてもあげました。
2021年7月19日 物理学:数学を含む 言葉 が循環・ネットワークであると言うことの意味
その上で、「あらかじめ決めてかかることができない自然」に対して、数学を含む言葉が持っている特性についてあげました。
- 2021年9月30日 言葉は 自然 を篩(ふるい)にかけるフィルター
それもこれも、言葉が人の思考の道具であり、第1の心の起点が「互いに規定することにより成り立つ循環でありネットワーク」だからです。第1の心がそもそも外のない内だからです。だから、自然とは何かを予め決めてかかることはできません。
物理学者たちの思考が如何に緻密であり、精密であっても数学を含む道具としての言葉が持つ本質的な特性、「互いに規定することにより成り立つ循環でありネットワークであり外のない内」である以上、如何様な理論も外に出ることは決してありません。これは弧理論もまた同じです。【1】2つの心→岡潔「(第1の心は、)物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。」
ですから、場と量子の説明は、本質的に匙とスプーンと同じレベルなのです。それは、仏教にある”如来”も同じですし、ヲシテ文献にある「ア・ウ・ワ」のアワも同じです。岡潔の「自然数の1は決してわからない」も同じです。【6】数学の使えない世界 にあるように第1の心では決してわからないのです。
そういえば、数学を使わなかった先人も気づくきっかけは言葉の特性について考えたからだろうと思います。
- 2021年10月8日 先人が” 如来 ”に気付いたのは言葉の仕組みから?
物理学者たちが数学を使っても、行きつく先は同じだということです。そういう意味では、場と量子の関係も同じであって、場の量子論 は行き止まりであると考えます。そして、図1にある場の理論と一般相対性理論との統合は無理だし、たとえ統合できたとしても意味をなさない(矢鱈と抽象的な空論)と考えます。当たり前ですが、どこまでもブラックボックスですから、その領域の専門家にしかわからない理論に意味はありません。ひも理論の26次元とか10次元は指折り数える児戯に等しいと書いた記憶があります。
「匙とスプーン、如来、アウワのアワ、0と1、場と量子」といった関係性でのみしか表しえない言葉の延長上に必ず別の「対」が出てくるはずです。今のところ、「ひも理論、超弦理論」です。これもまたブラックボックスの一つに過ぎませんし、外のない内です。どのような理論が出てきても、理論を知らなくても、言葉の特性からして言い切れます。
因みに、弧理論は、(第1の心、言葉を使う思考の限界を超えるべく)すべての起源を別の次元軸に求める理論です。別の次元軸上に2つの心の起源を求め、自然は、心が在るために映写される映像だというのが弧理論の根幹です。そうすれば、第1の心の限界である「互いに規定することにより成り立つ循環でありネットワーク、外のない内」という限界を当面の間回避できます。(当面の間というのは、およそ千年くらいです。それくらいの間、人類は存続できそうと考えます。)
なお、冒頭の”物質とは何か”という自然科学の探求は終着点に達していることに気づくべきです。探求の方向を変えるべきと考えます。
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