自然科学 に代わる新しい科学の最低要件 ”物を量り事を質す”

自然科学に代わる新しい文明の基礎となり得る科学の最低要件を示します。(長くて申し訳ないです。)

その前に管理人が自然科学の問題点を追求する切っ掛けとなったある科学者の言葉を列挙します。

科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める

そして基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

自然科学は木の枝に例えられ、その発達は”確率”に行き着いたわけです。

図1

君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に変えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほどに複雑になるんだ。

君たちにとって最も必要なのは、自然の基本法則または事実がまったくかんたんだということを発見することだ。

研究の結果わかってきたのは次です。

なぜか科学者たちは、複雑なことを考えることが進歩だと勘違いしています。科学者たちは「論理が精密で、実験と符合すれば本当の事に近づいている」と確信しています。しかし、数学を含む言葉は互いに規定し合って成り立つ循環・ネットワークですから、行き着く先は抽象でしかないことに気づいていません。「人類は時代とともに進化する」という考え方を微塵も疑っていません。

ある科学者は、基本的には地球の科学に悪い点はないとしながら、問題点を2つ指摘しています。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない

二つの次元を持つ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面をあらわす。次に君がその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見るだろう。

指摘したのは、相対性理論の結論というか解釈が誤りだということです。

時間を光速度に置き換えて、光速度をモノサシとして、時間、空間、重力、質量を規定しました。結果として得た一つがE=mcでした。

図2 E=mcは間違いであって別の次元軸E軸が正しい

空間は自明ではないという指摘です。空間は別の次元軸からの投影による映像だとの指摘です。また、数学者岡潔の指摘から、角度から作る時間は量ではないとわかりました。

すると、自然科学の全体は量ではない時間をパラメーターとする循環であることがわかります。

図3 物質の運動→時間→光速度→(時間空間)→物質→

「あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになる」という量子力学の問題点を次のように指摘しています。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

管理人が拘った語に”抽象”があります。「論理が精密で、実験と符合すれば本当の事に近づいている」という確信は間違いです。何故なら、数学を含む言葉は互いに規定し合って成り立つ循環・ネットワークで、外のない内だからです。行き着く先は抽象であって、彼らが求めてやまない”真理”などではありません。次の記事が参考になります。

まとめると次図で説明できます。

図4

相対論のE=mcで質量を換算するのは間違いで、図の右側に自然科学を適用できません。


追記12/25 相対性理論が認知される過程は、「理論→観測→認知」といった流れになく必ずしもスッキリしたものではありませんでした。そのあたりの事情は「七つの科学事件ファイル―科学論争の顛末」に詳しいです。次の過去記事を参照ください。


たぶん、式は数学的に正しいとしても、真のエネルギー値(E軸上にある実体が持つ値)に近いが正しくないという意味だろうと思います。相対性理論は光速度をモノサシにしているため、空間の破れが問題になります。特異点やワームホールあるいはブラックホールです。

 

図4の左側、素粒子の領域について、映像だとすると素粒子は確率的に現れ消えるというのは納得できます。しかし、素粒子は波の一種です。

gif1 マクロでは連続として観測される

gif2 小さな領域では離散的に観測されるし、波でもある

 

ヲシテ文献を調べている内に、岡潔の”情”と本居宣長の”もののあわれ”がミヤビ(ナサケヱダとアワレヱダ)に対応していて、ミヤビが時制を表していることに気づきました。本居宣長の記述(現代口語訳)から気づいたのが次です。【5】情の特色本論:第九回「もののあはれ」の巻を参照ください。

  • 人の感覚でわかるのはである。

図2の解釈「物質とエネルギー(運動)」との関係が「物と事」の関係であるとわかりました。ある科学者の言葉と図2をまとめます。

  1. 物質と物理学上の定義としてのエネルギーはE軸上にある一つの実体の異なる面に過ぎない。エネルギーは時間の観念をはずすと運動と表現できる。ただし、Pは時間を含むので_(アンダーバー)をつける。
  2. 運動には速度、加速度、熱、圧力、波などがある。
  3. 波の一種に音波、電磁波、ソリトン(孤立波)などがある。
  4. 素粒子はソリトン。
  5. は一つの実体の異なる面に過ぎない。

つまりは、多数の素粒子は”物”ではありませんでした。音を可視化したようなものです。音の強さをはかって、音の質量を求めるようなものです。意味がありません。地球の科学者は”エネルギーの量を正しく求める方法を知らない”という指摘があります。

 

ここのところ、物理学における最重要の用語である”物質”や”質量”という語に違和感を感じています。物理学者たちが、否、自然科学者が「物と事の明確な区分がない」というのは致命的な欠陥だとの思いがあります。

大体において、物質も質量も和製漢語です。そして、いずれも音読みです。ですから、物と事の量と質を明確にわけて、訓読みで表現するのが(現段階で)ベストだと感じます。

つまり、次なる文明における科学が最低限の満たすべき要件は次です。

物を量り、事を質す

”ものをはかり、ことをただす科学”です。それがエネルギーの量を正しく求める方法です。 物質とか質量と言っている段階ですでにダメです。

幕末からの先人たちは、物の質とか、質とか量とかいろいろ考えながら苦労して翻訳したのかと思います。

図5 日本語の基礎はヨソヤコヱにある 母音と子音に”物”と”事”を対応させている

以下は古い記事ですが参考まで。

こちらもどうぞ。

最近は歴史家の林千勝氏が一番本当のこと(歴史)に近いように思います。研究は12年を過ぎ、13年目に入ろうとしています。いろいろとわかってきました。

  • 何処がどのように間違っているのか
  • いつ間違えたのか
  • 誰が指示したのか
  • 何を消したかったのか
  • 指示した目的は何か
  • その結果、どの方向へ発達したのか。
  • そして、現在どのような文明と科学になっているのか

還元主義は間違いではありませんけれど、第1の心、言葉で言える心が循環である以上、すべての抽象化という行き止まりがあります。ある科学者は2大強国による戦争について次のように述べています。

  • もはや勝利が目的ではなく、お互いを破壊し尽くす事が目的となった。

物を量り、事を質す科学は、人類の自滅を制止するための一歩だと考えます。その前に「五感でわからないものはないとしか思えない」という唯物主義はくだらないです。【3】五感でわかるものより。

物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。

しかも進化論と結びつけて、共産主義へ持って行こうとしています。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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