人 とは肉体を持った人間です。現代人のほとんどが、心は2つあることを知りません。1つしか知りません。対して、ヲシテ文献に登場するヒトは心が2つあることを知っています。前回記事の続きです。
ヲシテ文献においては、ヒトとは「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナナ・ヤ・ココ・ト」のヒトです。ヒトは経験を積んで成長する存在という意味です。同時にヒトハアノモノでもあります。
写真1 ヒトハアノモノ(日本ヲシテ研究所)
人、即ち人間は私欲(生命維持の欲求)のもとに競争します。還元主義(わけることによりわかる)と思っています。しかし、ヒトはわけることによりわかっているのではありません。何故なら、言葉は互いに規定し合って成り立つ循環・ネットワークであり、外のない内だからです。
つまりは、ヒトは言葉でわかるという第1の心、ヲシテ文献で言うところのシヰ(生命維持の欲求)のみの存在ではないのです。岡潔によれば、そのわかり方は私わたくしというものを入れようと思っても決して入らない心、無私の心です。ヲシテ文献で言うところのタマ(心の本体)です。これが第2の心で、岡潔の”情”に相当します。おそらく情とタマは同じではないかと感じます。仏教の”仏”、あるいは”覚”も同じでしょう。過去記事を参照ください。
ですから、岡潔が言うように、心が2つあることを知らねば、物質的自然のすべてを覆っているがそこから一切出ていないのです。
ヒトは言葉でわかっているのではないことをわかって、初めて成長できる存在ということです。
前回記事にしたある計画の最初の段階は 人 ・人間は肉体による存在だけでなく、2つ目の心のあることを知って、その上で「一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)と成長しようということです。これが日月神示の示す真意(神意?)です。象徴的に言えば「○にゝ」あるいはΘ(マルの中にチョン)、または⦿です。
心が2つあることを認めるのは大変苦しいことです。何年も苦労を重ね、学問を修めてきたのですから、高学歴の人ほど難しいです。今の世界は、精密で正確で、論理的に複雑であればあるほど優秀であるとされてきたのですから、とても認め難いことでしょう。
因みに、宇宙の中心は2つあります。これをアとワと呼んでいます。
図2 宇宙の中心は別の次元軸上(E軸)に2つある 境界に空間(M軸)がもたらされる
アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる ヒトハアノモノ
- アとはワでない何か。
- ワとはアでない何か。
ヒトハアノモノではありますが、アが何であるか決してわかりません。また、地平面の中心は1つあり、その中心は地平面にありません。同じように、2つある宇宙の中心は宇宙にありません。別の次元軸(E軸)上にあります。アは在るが決してわからないのです。ワもまた同じです。
とにかく、ヒトとして心が2つあると知らねば、成長も進歩もありません。熾烈な競争の果てに自滅があるだけです。⦿(ア)の意味は抽象的なあるいはスピリチュアルな何かではありません。心の仕組みと働きを科学する。これがミクサタカラ(タマ・カガミ・ツルギ)のタマ(精神科学)です。
追記1/11 2つの”わかり方”の例を過去記事より抜粋します。具体的でわかりやすいと思います。2021年7月10日「喋る 私 と喋れない 私」
かなり昔、テレビのインタビュー番組において、女子プロテニスプレーヤーの沢松某女子が応えていました。(たぶん、沢松和子氏か沢松奈生子氏のどちらか。)
沢松氏は当時、世界を転戦するトーナメントプロでしたから、世界の何カ所かにアパートを借りて、そこで自炊しながら練習と試合に臨むと述べていました。
朝、目覚めたときまず最初に「自分が地球の何処に居るかを思い出す」ことから始めると述べていました。
- 何となく目覚める。
- 何処に居るか思い出す。
これです。上が喋れない私(第2の心)で、下が喋れる私(第1の心)です。第2の心が私という第1の心を下支えしているのです。第2の心がなければ一切は存在しません。
人が持つ”わかる”には2つあると知ることから始まります。ヒトは言葉でわかっているのではありません。
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