当サイトでは 岡潔 の言葉を詳しく検討してきましたが、岡潔も勘違いしているらしい事があります。
岡潔は、言葉は形式だと述べています。【4】情のメカニズムより。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
「わかる」には2つあって、最初に「情的にわかる」というのがあるから言葉という形式があり得たと述べています。
人の思考において、曖昧さがなく、精密であることに価値があるならば、数学が最高ですし、曖昧さのないプログラム言語がベストです。 ですから、プログラム言語のような言葉が世界に一つだけあればよいはずです。しかしながら、世界中に言語は6000以上あるとされています。世界にいくつ言語があるか?
言葉の元となるのは音素です。聞き分けられる最小単位を音素と言います。音素には母音と子音があり、意味はありません。音素を母音・子音に区分けして意味づけしたのが言葉です。で、世界中には何十というプログラム言語がありますし、世界中に多数の言語があるのは言葉が型式だからです。
一方で岡潔は「わかる」の最初は”情”にあるとしました。この”情”を日本人の本質だとしました。管理人も同意ですが、岡潔は”情”を発見し、”情”を絶対的なものと考えていたようです。「【1】日本人は情の人である」
ところで、管理人は仏教の”仏”と善導大師が漢字で表した”覚”と岡潔が見つけた”情”は、いずれも言葉で言えない何かを苦心して表現したもので、それぞれ同じことを異なった言葉で表現したのではないかと感じます。何故なら言葉は型式だからです。
2021年5月12日 「仏」と善導大師の「覚」、そして 岡潔 の「情」
言葉は型式だから、仏も覚も情もその他の如何なる言語で言い表されていようとも、その意図は同じである可能性があります。
”仏”と”如来”は異なりますけれども、如来の言わんとすることは岡潔の言った「自然数の1は決してわからない」に通じます。2進数で考えた場合。1とは0でない数で、0とは1でない数です。つまり、1は決してわかりません。これは如来の合わせ鏡と同じです。
- 2021年7月7日 如来 の意味。何々の如しの如し・・・・
- 2021年10月8日 先人が” 如来 ”に気付いたのは言葉の仕組みから?
ですから、人は言葉でわかっているのではありません。最初に岡潔の言った”情”で、あるいは善導大師の言う”覚”で「わかる」というのが無ければ一切は存在しないのです。
- 2018年9月21日 数学 者岡潔「自然数の1は決してわからない」 ヒントは「道具としての数学」にあった 追記部分を参考に。
- 2021年9月30日 言葉は 自然 を篩(ふるい)にかけるフィルター
言葉は型式だとしながら、情を唯一とすることに矛盾があるのでは?というお話でした。
古今東西、言葉で言えない何かを何とか言い表そうと苦心惨憺した結果であって、安易に口にすべきではないという戒めもよくわかります。人々は安易に口にするから、人の数ほど宗教がある訳です。(それもあながち間違いと言い切れませんが。)世にもめ事が多い理由です。うがった見方ながら、世界の支配者たちは宗教を争いのタネとして利用しているようです。言うまでもなく、世界最大・最強の宗教はカネと時間です。非常に強い縛りです。サイト内を「信仰の時代」で検索ください。
因みにヲシテ文献においては、”情”はナサケヱダで、本居宣長の”もののあわれ”はアワレヱダに等しいようです。ナサケヱダとアワレヱダは、時制を表しているようで、岡潔の情についての説明と併せて考えるとナサケヱダが時の現在で、アワレヱダが時の過去です。2つ合わせてミヤビといいます。
図1
- 時の現在 第2の心 ナサケヱダ 情 覚 何となく趣がわかる 静止画がわかる
- 時の過去 第1の心 アワレヱダ 動きがわかる 動画がわかる 記憶が必要
- 合わせてミヤビという。ヒトに社会性ができる
もう一つ。ヲシテ文献の「ア・ウ・ワ」は如来、あるいは「自然数の1は決してわからない」に同じです。
図2 フトマニ図 中央の縦、ホツマ文字で、上から「アウワ」の特殊文字
アはワではない何かであり、ワはアではない何かです。弧理論では次です。
- 自然はE軸からの投影による映像(M軸:物質的自然あるいは宇宙空間、これがウ)
- 宇宙の中心はE軸上に2つある(アとワ)
- ウは渦のウ(物は、空間において回転運動する=渦)
- 中心であるアはワではない何か
- もう一つの中心であるワはアではない何か
- ヒトハアノモノであるが、アは決してわからない
- カミ → アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる ヒトハアノモノ
カミの仕組みがすべての根源ですが、アが何かは決してわかりません。漠然とした如来より、かなりわかりやすいと思います。ヒトの2つの心はアとワから出ているようです。岡潔の言葉に倣って「大宇宙の中心はア」ということになります。
何かに拘るにしても、これだ!として一つに決め打ちするのは慎重な方がよい気がします。ヒトは「わけることによりわかる」のではないからです。
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