お題は3つあります。いずれも書きかけで消化不良のまま書き込みします。ご興味のある方は、ご自身でもお考え下さい。
1)量ではない時間と運動が何故比例するのか?
この問題は以前からの課題でした。考えるきっかけは岡潔の次の言葉でした。【2】自然科学者の時間空間より。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
岡潔 は、自然科学者の時間について、”運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。”とのべました。しかし、現実として時間をパラメーターとして使うことによって、天気予報ができます。岡潔の言うことはもっともと感じながら、現実として時間を使えることに戸惑っていました。
いろいろ考察した結果、元々は角度から時間を作っていると気づきました。角度から作った時間は量でないことは確かです。しかし、なぜ、角度から作った時間と運動とが比例関係にあるのか不思議でした。で、弧理論の骨子である”自然は別の次元軸上(E軸という。)にある何かが投影されることにより現れる映像(M軸という。)”だとすると、次になります。
- E軸からの投影角→物と事(運動P)→物である太陽と地球の運動で決まる影の角度→時間
- E軸からの投影角∝物と事(運動P)∝空間内での角度∝時間
投影角が原因となって「運動が時間に比例する」わけで、物理現象を記述するに時間よりE軸からの投影角をパラメーターとして使ったほうがより合理的であることは間違いありません。だから、12進数が重要なのです。
E軸からの投影角が時間に比例することになります。だから時間が運動を記述するのに使えるということです。でも、直接的にはE軸からの投影角を使うべきだということになります。
図1 物と事(運動P)は一つの実体の異なる面に過ぎない(映像である)
固体物理学は物質の結晶構造から議論が始まります。
それよりも、E軸からの投影角から結晶、アモルファス、液体、固体、気体(流体)が議論できるほうがより直接的なはずです。
物質は何故結晶を作るのかの理由がわかるはずだと感じます。
2) 岡潔 「日本民族は、私は、他の星から来たのだろうと思います。」
大体、日本民族は、天御中主命から数えると、30万年にはなると思う。 ― 人類あって以来60万年〜100万年とも言われていますが ― それが物質が自分ではなく、心が自分だと初めから気づいているというのは実に早い。だから、日本民族は、私は、他の星から来たのだろうと思います。ともかく、日本民族の中核の人は心が自分だと思っている。だから日本民族は心の民族です。心は合わされば1つになる。これが心の民族の特徴です。
この言葉は比喩でしょうけれども、管理人は本当のことではないかと感じます。宇宙人アランやアダムスキーのコンタクトした人たちが持つ哲学と日本の古い時代の文献であるヲシテ文献に登場する人たちが持っていたであろう哲学が同じであるから、彼らと私たちの祖先が同根であると感じます。 直接ほかの星から来たというのではなくて、祖先が同じなのかも知れません。
G・アダムスキー:久保田八郎訳になる「空飛ぶ円盤の真相」(高文社)本のp75とp77から一部引用します。
写真1
さて、この象形文字が私に与えられたおもな理由の一つは、地球人が欲しがっていることを宇宙人が知っていたという〝具体的な証拠〟を与えるためであった。
宇宙の兄弟たちは次の事実を認めている。すなわち地球の古代文明の歴史やその文明の哲学のなかには、彼らの遊星上で知られていて、そこに住む人々によって保たれている歴史や哲学と一致するものがあって、それが例の象形文字のなかに述べられているというのだ。
それで、ずっと以前に私に与えられたあの象形文字の完全な説明をすることは現在でも私にはできないけれども、その文字はおそらく目的を果たしたであろう。宇宙人たちは満足の意を表わしている。
強調と下線は管理人による。「私」とはG・アダムスキーのことです。
つまり、ネガフィルムの意味するところ=ヲシテ文献の指すところです。岡潔は人に心が2つあるとしたが、ヲシテ文献のヒトに心が2つあることを示していて同じです。タマとシヰがある。タマは第2の心で、シヰが第1の心。岡潔の考え方よりヲシテ文献が示す心の仕組みのほうがより詳しい。
3)宇宙とは? 一筆書きと節穴
宇宙とは何か?どのように出来ているのかについて、弧理論の観点から考察すると大分とわかってきました。
宇宙とは一筆書きの絵のようなものに近いと感じます。これは、超ひも理論に通じるものがありそうです。というのも、物理学者たちは素なる時間と素なる空間にすべてが詰め込まれていると考えていて、その結果得られたのが超ひもであったわけです。つまり、弧理論の全体から最小の構成を考えると最小構成(素なる時間と素なる空間)に一筆書きの部分を見たとも考えられます。同様にスピンネットワーク理論の考え方も最小構成の内に”アウワ”のウ(渦)の最小単位を見出したと考えられます。ネットワークも数学を含む言葉は”互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク”ですから、その構造が最小構成である理論に反映したと考えるのは至極妥当です。
フラクタルやマンデルブローも同じ一筆書きに類しますし、繰り返しや振動などの減少も同じです。また、空間は板塀に空いた節穴のよなものです。この例えは、境界空間の仮説より出ています。この2つについてメモします。
1.宇宙は一筆書き
弧理論では、宇宙の中心は別の次元軸上(E軸)に2つあります。2つの中心をアとワと呼びます。例えていえば、地平面の中心は地平面にはなくて、地平は球状をしています。ですから、地平面の中心は球の中心にあります。
同様に宇宙の中心はE軸上にあって、宇宙にはありません。しかも2つありますから、3次元ととれる空間ができると考えられます。2つの中心であるアとワの内にすべてがありますから、一筆書きに例えられるわけです。奇しくも聖書の「アルファでありオメガである。」も同じ意味になります。アとワは1と0と言い表しても同じです。
- 岡潔:自然数の1は決してわからない。
アは決してわかりません。
ついでながら、人がわかる物と事を母音と子音にわけたのが日本語の大和言葉の元となったアワウタ(ヨソヤコヱ:48音韻)です。アとワにヒトがわかる物と事のすべてが配置されているというのは、余分な混じりけがないという意味でもあります。
図1出展:日本ヲシテ研究所 48音韻図
つまり、抽象(妄想)の入る余地がないということです。例えば、神仏や悪魔や魔物と言ったオカルトなども妄想の部類です。善と悪も同じです。二項対立はここから出ます。また、日本教(神仏より人の都合が優先される)が出てきます。日本教は日本人の表層的な特性を言い表しただけです。その本質はアワウタにあります。
では、空間とは何かです。
2.空間とは板塀に空いた節穴のようなもの
板塀に節穴があります。板がなければ節穴は存在しません。
写真2 出展:「節穴」の意味は?
板が”物”で穴は”空間”です。当前、物がなければ空間もあり得ないです。
本当に人がわかるのは大宇宙の中心にある2つの何かです。仮にこの2つをアとワと名付けています。このアとワから出ている何かがアとワの境界でもたらすのがアワ(物)です。このアワをウと呼びます。ウとは渦のウです。アワ(物)であるウ(渦)があってこそ、その隙間である空間があり得るのです。これが板塀と節穴の関係にそっくりです。ちょっとわかりにくいですけれど、板と節穴の比率が反転したと考えると近いです。ただし、ヒトにとって空間を含めて物と事のすべてですが、そこから一切出ていません。これを”外のない内”と言います。外のない内は、岡潔の言った第1の心、即ち、”意識を通し言葉で言える”という仕組みが持つ限界を意味します。前述のとおり、言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク(外のない内)だからです。知ってのとおり、インターネットに載らない情報などいくらでもあります。人の思考自体が外のない内です。
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