岡潔の言葉などの資料・文献について調べていて、昨年頃より” 悟り ”という言葉が頭をよぎります。
- ヲシテ文献による(ト)のヲシテ
- ヲシテ文献によるタマ(心の本体)
- ヲシテ文献によるナサケヱダ(随心)
- 記紀によるシラス(民に方向を示す?)
- 岡潔による情(大宇宙の中心) 情知意の順に働く
- 仏教による仏(Buddha)善導大師の(覚)
- 仏教による他力(仏・覚にある能動力)
- 仏教による如来 (岡潔による”自然数の1は決してわからない。”に同じ)
- 日月神示(ひふみ神示)による 気(キ)づき の促し(気づかされる)
- 五感を下支えする覚 (視覚・聴覚・味覚・触覚)5÷1
- G・アダムスキーによる2つの触覚(touch sense)5+1
- 時の現在が”わかる” (静止画がわかる)
上記は皆、ほぼ同じことを示しています。岡潔が示した「”わかる”には2つある」に同義です。上記がなければ、一切は存在しません。【4】情のメカニズムより。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。
人の脳を模して作られたAI(人工知能)と脳を比較すると第1の心には、創造の仕組みがないとわかります。
図2 ブラックボックスを”わける”ことに得た結果はまた、ブラックボックス
還元主義はどこまでもブラックボックスが続きます。
図4 よく見るとトランジスタもブラックボックス
AIはブラックボックスで構成できますし、人の脳もまたブラックボックスだとわかります。
図5 処理系(脳とAI)
肝心なこととして、このような如何なる処理系からも(外のない内)である知識の全体から”創造”が出て来ないことです。
図6 知識のネットワーク(外のない内)の各要素もまたブラックボックス
そして、知識の最小単位が岡潔が言った「1」でありヲシテ文献(フトマニ)の「ア」です。
- 岡潔 自然数の1は決してわからない。
- ヲシテ文献が示す”ア”は決してわからない。
結論を万華鏡に例えます。
図7 万華鏡を覗く
- 万華鏡に棲む住人が言います。
- 住人A「何という美しい世界なのだ。素晴らしい対称性を持つ世界にはきっと複雑で精緻な仕組みがあるに違いない。この世界の仕組みは大多数の人にはわかるまい。私のような優れた住人以外には。」
- 住人B「いいや、本当はごく簡単な仕組みによって、この世界はできているはずだよ。ごく少数の住人にしかわからない(抽象的な)仕組みなど無意味だ。でなければ、いずれ進歩は止まる。」
図8
住人Bの言うことが” 悟り ”にあたります。
- 悟り を開ひらく 「心の迷いが解けて、真理を会得する。」
数千年も前から幾ばくかの人たちが住人Bと同じ考えを持って、発言してきたと考えると時代の古い新しいは関係なく、ごく簡単な仕組みがあるに過ぎないという考え方は至極全うです。複雑すぎるとある程度で止まるからです。
余談です。中村誠太郎著「私の歩んだ道」に弟子の一人が師匠である湯川秀樹氏を褒めたたえる意味で「先生は仏陀のようですね。」と言ったところ湯川氏は「たとえ立派な人であっても何千年も前の人と同じにするな。」と弟子を叱ったとの話が出てきます。はっきり言って不愉快でした。本当のことは、細部にはありません。(映像と画素の関係:画素と映像は無関係。)
実のところ、「心の迷いが解けて、真理を会得する」というようなものではありません。伝えようのないロジックとして(決してわからない)ものをあえて伝えようとすると如来とか「1は決してわからない。」、「全部を覆っているが、そこから一切出ていない。」などのような意味不明な言葉になってしまうのです。
何故なら、言葉は形式だからです。言葉の最小単位である”音素”である母音や子音などに意味はありません。言い換えるとブラックボックスです。組み合わせの内に最小単位を説明することなどできない話です。そもそも、人は言葉でわかっているのではありません。これに気づかねば、何も始まらないのです。
その最小単位の組み合わせがヲシテ文献のカミです。
- アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトハアノモノ。
写真1 出展:日本ヲシテ研究所 池田満氏(ヒトハアノモノ)
アは決してわかりませんし、ワも決してわかりません。弧理論で、何故か大宇宙の中心がE軸上に2つあるというのと符合します。奇妙です。
図9 2つの中心アとワからウがもたらされることによりM軸となる。ウは渦(物質)。
物質がもたらされて、初めて空間となります。空間とは板塀に空いた節穴のようなものです。板塀に節穴があります。板がなければ節穴は存在しません。
写真2 出展:「節穴」の意味は?
本当に存在して、第2の心でわかるのはE軸上のアとワです。弧理論による境界空間の仮説の模型でいえば、本当に存在するのは青い水と灯油です。境界面は存在しません。
この模型の通りならば、物質(陽子中性子電子)はE軸上の何か そのもの(アワ:泡)だといえます。その他素粒子群は事(運動P)です。
- 物と事(運動P)は一つの実体の異なる面に過ぎない。
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