岡潔 は二つの点で間違っていました。一つは既出で、書き漏らし(1)がありました。 もう一つは”大宇宙の本体は情である”と、決め打ちした(2)ことです。
(1)まず一点目は既出です。人がわかるのは物と事です。 岡潔 は「数は量のかげ」と言いました。物には量があり、事には質があります。ですから、正確には次です。
- 数は物の量のかげ
書き漏らしたのは次です。
- 数は事の質のかげ
数には自然数、有理数、無理数、虚数などあります。理学の面で言うならば、2種類の数を物の量と事の質に使い分けねばならないはずです。しかし、実際は混同したまま進んできました。自然科学においては、物の量と事の質を混同したままです。何度も書きました通り、時間は物の量ではなく、事の質です。時で言えば、時間は過去で現在を含みません。
岡潔は、数について次のように述べています。
- 自然数の1は決してわからない。
なぜ1がわからないかです。10進数ではなく、0と1を使う2進数で例えます。
- 1とはゼロでない数。ゼロとは1ではない数。
1とゼロは互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しです。だから、決してわかりません。10進数であれ、n進数であれ同じです。一般化すると次です。
- 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しで、ネットワーク。外のない内。
岡潔は自然科学者が考える自然について、「全てを覆っているが外へは決して出てない」と述べています。つまり、第1の心(意識を通し言葉で言える心。私わたくしという心。)は、”互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しで、ネットワーク”であって、外のない内である。だから、そこから一切出ていないと言ったのです。
仏教にある”如来”の意味に同じです。決してわからないものをあえて言葉にしたのが如来です。如来とは岡潔の言った第1の心を指します。詳しくは過去記事をお読みください。
如来という言葉をどこの誰が言われたのかわかりません。如来という言葉は第1の心を指しているが、示したかったのは、外のない内である第1の心のほかを示したかったのだとわかります。これを反転というか、逆というのか、裏というのかうまく言い表せません。
(2)間違っていた点。
岡潔は”大宇宙の本体は情である”と言い切った点にあります。【7】と【8】
決め打ちした点にあります。第2の心は私わたくしというものを入れようと思っても入れようのない心であって、意識を通さず言葉で言えないがしかし、何となくその趣おもむきがわかるというものでした。 (1)で示した”(論理として)決してわからない”、説明の仕様がない何かを”情”として、決め打ちしたのは間違いです。
岡潔自ら、決してわからないとしながら、それを情だとするのは自己矛盾です。岡潔が言ったように言葉は形式です。ですから、どのような表現をするかは自由です。幾通りもの表現が可能です。次は皆、同じものを決め打ちしたにすぎません。
- タマ・・・・ヲシテ文献にあるタマシヰのタマ。心の本体。大宇宙の中心”ア”から来る。
- Buddha・・・・お釈迦様による。
- 仏・・・・仏教の善導大師
- 覚・・・・仏教の善導大師
- soul・・・・参考【1】日本、東洋、西洋の心
- 気(キ)づけ・・・・日月神示(ひふみ神示:他力の向こう側)
- 気づかされる・・・・仏教による他力(岡潔の創造・発見に相当する。ヲシテ文献にあるトのヲシテ。)
はっきり言えば、世界にある言葉の数だけ、神仏はあります。それは言葉が形式だからです。「意識を通さず言葉で言えない何か」を言葉で言い表す行為、そのものが間違いなのです。心の仕組みと働きの内のある一定について表現は出来るでしょうけれども、すべてかどうかは誰にもわかりません。繰り返します。それが何かは意識を通し言葉で言えるものではありません。
岡潔は自身が”情を発見した”と思ったから、唯識に嵌ったのです。自ら情・知・意の順に働くとしながら、唯識に嵌ったのです。知識と意識は情(第2の心)より後です。第2の心について、わけることによりわかるものではないとしながらわけることによりわかろうとしたのです。それが唯識です。仏教を丸呑みしたからだと思っています。過去記事にあります。
- 唯識には繰り返し(抽象)が出てくる。だから、考えないことになっている。・・・・ある仏教者
言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークですから、議論、理論の終端に繰り返しが出てくるのは自明です。次の繰り返しやネットワークが出てくる理論は終端(抽象)です。自然科学、ことに理論物理学は終端に行き着いています。
- ループ量子重力理論 、スピンネットワーク、超ひも理論
結論です。(論理的帰結) 心の本体、もしくは心の出処について。
- 確かに在るが、それは何か決してわからない。
因みに、岡潔の”情”について検討すると、ヲシテ文献にあるナサケヱダ(随心)に同じで、時の現在です。「現在が何となくわかる」というのは静止画がわかるに同じです。「物がわかる」と同じです。また、本居宣長の”もののあわれ(あはれ)”は、ヲシテ文献にあるアワレヱダに同じで、時の過去です。「過去がわかる」というのは動画がわかるに同じです。「事がわかる」と同じです。当然、記憶(情報)が関係します。物がわかり、記憶することによって、新しい物がわかります。その繰り返しにより、事(当サイトでは運動Pという。)がわかります。参考【5】情の特色
新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。
当サイトでは「心の仕組みと働き」について調べてきました。心とは何かを、(ある程度)わけることによりわかっています。しかし、心の本体を仮にタマとしますと、タマは大宇宙の中心である”ア”から来ているようですが、この”ア”でさえ、仮に言い表したにすぎません。
- 自然は別の次元軸(E軸)上にある何か(実体)の投影による映像(M軸)である。
- 物と事(運動P)は一つの実体の異なる面に過ぎない。
弧理論におけるカミの定義です。
- アとワはつながり、ウよりヒトを生じさせる。ヒトハアノモノ。
図示すると次です。
図1 アとワはつながることにより、ウ(渦:物質)をもたらし、ウよりヒトを生じさせる。
ウの詳細は次です。
原子(陽子・中性子・電子)の構造をウ(渦)の組み合わせとして解明すべく研究を続けています。まだ、よくわかっていません。
補足 アもワもE軸上にある宇宙の中心に付けた名にすぎません。例えば、メ(雌)とヲ(雄)でも同じですし、SとNと呼んでもよいです。人によっては、父性原理、母性原理と言うかもしれません。天国と地獄、あるいは地獄と極楽、天使と悪魔、善と悪、二項対立という人がいるかも知れません。何と呼んでも仕組みは同じです。つまり、これらの仕組みの内に主義主張など意味はありません。仕組みと働きが在るだけです。大宇宙の中心に何があるのかはわかりません。仮に情と呼んでも、覚と呼んでも間違いではありませんが、”時の現在がわかる”という働きがあるということだけです。
追記5/24 本記事にて、言葉の数ほど宗教家ある理由がわかりました。決してわからない心について、仕組みと働き、並びに心の出処について考えてきました。形式である言葉で無理にでも言い表せば(失礼ながら)言葉の数だけ宗教がで出来る訳です。どの宗教も間違いとは言えないでしょうけれども、すべてOKということはあり得ないです。問題は多くの言葉があることと、言葉の数だけ宗教があるということの仕組みと意味がわかってきたということです。
結局のところ、人は物や事を言葉でわかっているのではありませんから、行き着くところ、人は自ら信じたいものを信じることになります。現在のところ、政治的主義主張や心情などを含めて、バラバラながら、唯一、全員が信じているのは10進数によるお金と10進数による12の倍数である時間です。この2つとも量ではありません。
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