先般の記事について。わかりにくかったので異なった言い方に代えます。
- 2022年5月23日 岡潔 の間違った点について
- 2022年5月25日 宗教 間の対立は無意味
岡潔は大宇宙の本体は”情”だと言いました。【8】 いろいろ調べてみるとBuddhaや仏や覚も”気づかされる”、シラスウシハクのシラス、あるいはヲシテ文献のナサケヱダも岡潔の”情”もほぼ同じことを示していました。
図1
考えた結果、在ることは確かだが、それがどういうものか決してわからないということでした。論理的帰結として”決してわからない”何かを型式である言葉で言い表そうとするから幾つもの表現ができるわけです。ですから、仏も神もあらゆる宗教は言葉で表現されますから外のない内です。
神仏もかかる宗教のいずれもすべてを覆っているが、外へは決して出ていないのです。これが 宗教の限界 です。そして、教理経典を詳しくすればするほどに、本質から遠ざかります。
言い換えると、各々が唯一無二(絶対)だと主張する宗教が言葉の数ほどもあること自体が 宗教の限界 を示しているということです。
例え話です。自動車は、トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、スズキ、光岡、三菱ふそう、日野などあります。各社がいろんな車種を生産販売しています。そして、各社それぞれ、自社の車が一番だと売り込みます。だからといって、「自動車は唯一無二であるべきで、一社一車種のみでよい」などと主張する人はどこにもいません。
宗教も同じです。つまり、言葉で表現している以上、宗教は唯一無二ではないということです。例の匙とスプーンの関係を示します。
図2
当たり前ながら、図2に神仏やあらゆる宗教を当てはめて説明することができます。神仏や宗教も「互いに規定し合って成り立つ循環(繰り返し)・ネットワーク」であり、外のない内です。つまるところ、その基本要素はブラックボックス(音素)であり、決してわかりません。強いて言うならば、神とは「悪魔でない何か」というくらいの意味しかないのです。(無限とは有限でないこととほぼ同じです。) 互いの関係の内に理解するしかできないのです。
神仏やかかる宗教のすべては外のない内です。すべてを覆っている(唯一無二)が外へは決して出ていないのです。これが 宗教の限界 です。しかも、教理経典をより詳しくすればするほど、本質から遠ざかり、抽象へ向かい、何もわからなくなります。つまり、2つの心が乖離して心を病み争います。例としてカトリック教会の性的虐待があります。
図3 出展:米カトリック教会、聖職者による子どもの性的虐待を防ぐ塗り絵を配布
動画1 カトリック教会の性的虐待スキャンダル、ヴァチカンで会議始まる
彼らは聖職者ではなく性職者です。また、宗教間の争いの原因の一つでもあります。2つの心の乖離は大きな問題です。
岡潔は心の本体を”情”だとして決め打ちしたから間違ったのです。確かに”情”は間違いではありませんけれども、”決してわからない何かの一側面”でしかありませんでした。
岡潔は自らの矛盾に気づかなかったのです。その”何か”について、他にも言葉で表現できることに気づけませんでした。如何なる物や事も互いに規定し合ってしか意味づけできません。言葉の成り立ちからして仕組みを表現して、一番近いのは如来です。如来を含む過去記事を検索ください。
人がわかるのは物と事です。物と事を区分せずに言い表したのが如来です。物と事を母音と子音からなる音素に区分けしたのがヨソヤコヱです。
図2 出典:日本ヲシテ研究所(48音韻図表)
余談です。
大和言葉の元となるヨソヤコヱには、漢字で表現される神仏やかかる宗教の教理経典も含まれますが、元となるヨソヤコヱには、”人知を超えた超自然的な何か”は含まれません。あくまで、人がわかる物と事という区分を音素(母音・子音)に配置しただけです。
ここから、日本人が持つ特性(神様仏様より人間の都合が優先される)という日本教が出てきます。wikiにある日本人の「相対化」の元はヨソヤコヱにあります。日本語を話す人は、物や事が互いに規定し合って成り立っていることを自ずとわかるのです。
- 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
つまり、自然は別の次元軸(E軸)からの投影による映像(M軸)なのです。この仕組みと働きがわかれば、宗教間の対立に意味がないことがわかります。
- 自然にある相対性は人知の仕組みにある訳です。
- 自然にある相対性は「情・知・意」の知と意の仕組みあります。
- 自然にある相対性は互いに規定し合って成り立つ知の仕組みにあります。
相対性が映像の仕組みから出てくることは、予想していましたけれど驚きです。事(運動P)の相対性は映像の仕組みから出てくることはわかっていましたが、知と意にかかる働きに相対性が出てきたのは驚きです。
時間を光速度に置き換えた相対性理論が如何に珍妙であるかわかります。
写真1
相対性理論は全く以て相対的ではなく、光速度絶対論とでも言うべきです。勿論、時間は物の量ではなく事の質です。
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