如来 フトマニ ヨソヤコヱ(アワウタ)はみな同じものの異なる表現に過ぎない

仏教にある如来1.ヲシテ文献にあるフトマニ2.、同じく日本語の元である大和言葉の起源になるヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ3.)は、ともに同じ意味を含んでいます。みな同じものであり、表現が異なるだけです。 いろんな表現があるのは、言葉が形式だからです。以下、何故そうなのかについて説明します。

 

言葉は形式ですから、何かを言い表すとき、様々な呼び方が可能です。巷にあふれる商品でも商品名とは別に型番があります。別に卸や小売りなどの流通ごとそれぞれの管理番号があります。各社バラバラでは不便ですから、共通するところについての規格を統一した型番や呼び名があります。例えばJIS規格であったりします。呼び名も型番も管理番号も型式ですから、いろんな呼び方ができます。当たり前です。

過去記事に示したように、世界には多くの言葉があり、同様の理由により言葉の数ほど神仏・宗教があるわけです。

 

1.さて、仏教の如来は、 (((~の如し)の如し)の如し)の如し・・・・と表現され、決してわからない何かを意味するようです。

写真1 如来は合わせ鏡に例えられる

数学、あるいはプログラミング技法で言えば再帰(帰納)に近いです。

 

2.フトマニはヲシテ文献の一つです。ヨソヤコヱ(48音韻)を魔法陣のように配置した図がフトマニ図です。

図1 フトマニ図 中央の渦巻き(アとワの特殊文字)を含む3文字が「ア・ウ・ワ」

フトマニ図の中央にあるア・ウ・ワのア・ワについて。 「アはワの如し、ワはアの如し」と言えます。アとは何か決してわかりません。何か在ることは確かですが、仮に「ア」と呼んでいるにすぎません。言葉は形式ですから。

人は言葉でわかっているのではありません。岡潔は第2の心と名付けました。第2の心とは、「意識を通さず言葉で言えないがしかし、何となくその趣おもむきがわかる」という無私の心をいいます。岡潔はこの心を”情”としましたが、善導大師による””に等しいです。何となくその趣がわかるという点において、在ることは確かです。しかし、言葉で表せません。その何かを無理に言い表すならば、如来だということですし、”情”であり”覚”なわけです。だから、人が持つ5つある器官からの「わかる」を視・聴・味・嗅・触と言います。善導大師によるならば、”覚”がなければ一切は存在しません。何故わかるのか?「わかる」起源となる何かは確かに在ります。ですがそれが何かは決してわかりません。

 

3.アワウタは、ヨソヤコヱ(48音韻)を五七調に詠んだウタです。

図2 出展:日本ヲシテ研究所

人が肉体に備わった器官でわかるのは、です。物と事を音素に割り振ります。音素は人が聞き分けられる最小単位で、音素には母音と子音があります。言語によって違いはありますが、母音は20ほどで子音は24ほどあるようです。「英語と日本語の音素の種類と数

物と事を5つの母音10の子音に対応させて、割り振ったのがヨソヤコヱ(48音韻)です。これが日本語の元である大和言葉の起源です。

決してわかりませんけれども、その間にかかる物と事を母音と子音に対応させたのがヨソヤコヱだということです。ヨソヤコヱを上下半分に折り返して読んだのがアワウタです。アで始まりワで終わります。この間に物と事が割り振られています。

  • カハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ 
  • モトロソヨ ヲテレセヱツル スユンチリ シヰタラサヤ

 

因みに、先日聞いたことです。阿弥陀如来の阿弥陀についてです。サンスクリット語の「アミタ(amita)」に語源があるとのことでした。ネットで検索しました。以下は、無量寿・無量光 | 総本山知恩院布教師会による解説です。

「アミタ」とはインドの古い言葉サンスクリット語で「ア」は否定形である事をあらわし、「ミタ」とは はかる ということだそうです、即ち「アミタ」とは、はかることができないという意味で「無量」と訳します。

無量とは計り知れないという意味ですが、「決してわからない」に同意です。岡潔の次の言葉の意味に同じです。

  • 自然数の1は決してわからない。岡潔

2進数で言えば、1とはゼロでない数ですし、ゼロとは1ではない数です。ですから、1は決してわかりません。数学を含む言葉は形式です。様々な言い方ができます。

メ(雌)とオ(雄)も同じです。右と左も同じです。rightは右であり、正しいとの意味もあります。ですから、正と偽(誤)も同じです。人が抱く(これが正しい)という価値観(正義)もこれくらいの意味しかありません。

  • 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環(繰り返し)でネットワークであり、外のない内

我々が持つ「何となくわかる」という第2の心の働きの起源となる何かは決してわかりません。そこから何もかも出てきていますので、識のすべては相対的であることがわかります。(岡潔は情・の順に働くとしました。) 言い換えると、第1の心(意識を通し言葉で言える”わかる”。わけることによりわかる。私心)でわかる地球上のすべては相対的です。思想哲学信条主義主張学問のすべて、言葉で言えるすべては相対的であって、人は信じたいものを信じているにすぎません。

 

ついでながら、管理人が最近感じていることです。人がわかるのは、差分ではないかということです。ならば、すべてが相対的であることの意味がわかります。自然科学の前提である時間・空間という模型において、時間は量ではないことがわかっていますけれども、空間もまた自明ではありません

当サイトでは空間がどのように出来ているのかは、境界空間の仮説によって説明しています。境界空間でサイト内を検索ください。

gif1 境界空間の模型は(岡潔:空間は量的質的にない)の条件を満たしている

上にあるとは何かについて、岡潔の言葉と管理人による言葉を示します。

  • 数は(物の)量のかげ 岡潔
  • 数は事の質のかげ 管理人

何度も言うように、自然科学には物と事の区別がありません。だから、熱力学的エントロピーと情報エントロピーの違いがわからないのです。時間が物の量ではないことに気づかないのです。あるいは知っていても知らないふりをしているに違いありません。

動画1

当サイトは、思想や哲学、あるいは特定の主義主張を述べていません。人が持つ心の仕組みと働きがどういうものであるかを調べています。あるいは神秘主義や特定の宗教を述べているのではありません。物や事にこうあるべきだなどの押し付けもありません。わかるの語源はわけるです。わけることによりわかるには限界があることは明白です。しかしながら、決してわからない何かを合理的な言葉(ヨソヤコヱ:アワウタ)に置くことによって、心の仕組みと働きをある程度わかるはずと考えます。その手立てとしてアワウタがあります。

 

追記 そういえば、日月神示(ひふみ神示)はフトマニの流れを汲んでいました。

ということは、日月神示は仏教の如来と表現は大きく違いますけれども、ヲシテ文献に準じて読む必要があるということですし、如来の意味合いを念頭に置いて読むべきかも知れません。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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