創造 論文と紙の違い

ここに岡潔の自筆原稿があります。数学に於ける主観的内容と客観的形式とについて(草案)の一部です。

gif1 出展:奈良女子大学岡潔文庫

用紙のサイズはB5なのかA4であったのかはわかりませんけれど、用紙に万年筆のインクで書かれた原稿のようです。

あるのは、用紙+微量のインクです。これに何の価値があるのでしょうか?ただの”用紙+インク”と論文との間には、何の違いがあるのでしょう。ずっと昔からの管理人の疑問です。

今もキーボードを打っています。液晶画面のドットに一定のパターン(文字)を並べているに過ぎない作業を行っています。PCには画面の維持に電力が必要ですけども、しかるべき操作により電磁気的な記録として保存できます。HD内には2010年に研究を始めてからの思索や実験、あるいは原稿などの資料が入っています。ただの箱であるPCと研究考察の内容との間に何の関係があるのか今もよくわかっていません。

情報とは何なのでしょうか? 当サイトでの研究を弧理論(Ark Theory)と名付けています。以下は弧理論の前提です。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 事を運動と呼ぶ。

運動の一つに情報(記憶)があります。ただの用紙と価値のある論文との間には決定的な違いがあります。その違いを岡潔は「 創造 」にあるとしました。

フランスの数学者アンリー・ポアンカレーの経験したような発見の過程を細かに自己分析している人は多くは無いようです。以下は、管理人による「 創造 とは何か。 創造 の過程」についての考察の様子がわかる過去記事です。

ヲシテ文献や岡潔や記紀あるいは仏教にある他力などの示すところ( 創造 )をまとめたのが次図です。

図1

どうも、Buddhaの意味として「(悟り)目覚めた人」とありますけれども、単に「真理、本質、実相を悟った人」というのは違うと感じます。これでは、何を真理とし、本質とは何か、実相とは何か、悟りとは何かがわかりません。

むしろ、先日来、書いてきたように、(Buddha)とは、名画や名曲に囚われず、画材や用紙の存在を自覚したヒトのことを言うのではないかと感じます。 真理などというと嘘くさいです。オウムを思い出します。ついでに言えば、世の宗教はすべて名画や名曲を競っているに過ぎないと感じます。ここで議論したいのは、教理経典や教義の話ではありません。

新しい知見とは何か、発見とは何か。その源泉は何処にあり、どのように発露するのかが重要なのであって、個々の論文や理論、あるいは教義の話をしているのではない事をおわかりいただけるとありがたいです。

 

言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でありネットワークです。これを外のない内と言います。ですからすべてを覆っているが外へは決して出ていません意識とはそういうものです。意識の限界(2つの心があること)を知るところから始まります。「外のない内」について、お釈迦様の掌から出られない孫悟空に例えた記事があります。興味のある方は「孫悟空」でサイト内を検索ください。

宗教の教理経典や教義、○○理論、ナントか主義や主張、△△思想や信条などなど、言葉による競い合いが無駄であることの意味がわかります。すべては事(運動)の一形態です。これら「」である理論や主義主張の行き着く先は「抽象」であることがわかっています。文明全体が抽象へ向かうことはとても危険です。

図2 全体が抽象へ向かっている

勿論、弧理論だけが繰り返しを抜け出ることなど不可能です。どこかに繰り返しが現れるはずです。で、当面の間、繰り返しを回避するために別の次元軸(E軸)を仮定しています。

自然科学は量ではない時間をパラメーターとする循環、繰り返しです。

図3 物質の運動→時間→光速度→時間・空間 物質は空間の内にあるから自然科学の全体は循環である

自然科学のすべての理論は繰り返しの内に抽象へ至り、得るものは少なく、 創造 の仕組みがないまま前へ進めなくなります。

 

ノイズや混沌と論理的な抽象の違いが気になります。

図4 出展:いろんなノイズを触ってみた

写真1 出展:アラベスク模様の世界を知る。意味や歴史、唐草模様との関係は?

抽象へ至る中には 創造 も岡潔の論文も含まれます。ポアンカレの不思議は今もそのままです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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