お釈迦様の仏教と岡潔の「情」は 科学 になりえない *世界の宗教が一つに帰納できれば、新しい科学を創れる*

2021年より縁あって、仏教について考えてきました。その結果、心の仕組みについて、以下のように取りまとめました。

図1

岡潔は第2の心(ヲシテ文献で言うタマ)について、次のように述べました。

  • 日本人は情の人である。
  • 大宇宙の中心は情である。

お釈迦様はBuddhaとしています。善導大師は、Buddhaを音で言えば””だとし、意味を漢字で言えば””だとしました。だから、人の肉体に備わった器官を感といい、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」と言います。

ところが、図1のように整理できたにもかかわらず、どうにも納得できないでいました。このままでは、 科学 になりえないことに気づいたのです。

ここで、日本語の起源であるヲシテ文献のヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)について説明します。

ヒトの肉体に備わった器官でわかるのはです。物と事を音素(ネコヱ)である母音子音に割り当てたのがヨソヤコヱです。これが大和言葉へつながります。

図1 出展:日本ヲシテ研究所

この48音を七五調で詠んだのがアワウタです。ヨソヤコヱを上下半分に折り返して読んだのがアワウタです。アで始まりワで終わります。アとワの間にすべての物と事が割り振られています。

  • カハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ
  • モトロソヨ ヲテレセヱツル スユンチリ シヰタラサヤ

アではじまり、ワでおわります。物の初めで、事の終わりです。因みに、ヒトとは、「・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナナ・ヤ・ココ・」のヒトです。

弧理論においては、互いに規定しあって成り立つ繰り返し、循環でネットワークです。かつ、外のない内です。あるいは、物と事は一つの実体の異なる面(映像)に過ぎません。そして、「物がわかる」ということは「静止画がわかる=現在」であり、「事がわかる」ということは「動画がわかる=うごきがわかる=過去」です。過去がわかるためには記憶が必要です。

  • 物と事を同時に決めることはできない。(現在≠過去)
  • 物と事をわけることによりわかる。 (わかるの語源はわける
  • 物と事の関係性の内に説明することしかできない。(わける相手は、常にブラックボックス。何処までわけてもブラックボックスが残る。)
  • 物と事を関係性の内に説明する言葉は、すべてを覆っているが、それより外へは一切出ていない。(外のない内)
  • 結論:ヒトは、物や事を言葉でわかっているのではない

この説明すること科学 です。ですから、言葉で説明するに、繰り返しでネットワークで、外のない内を外れることは決してありません。これには、数学を含みます。

さて、すべてを関係性の内にしか説明するしかできないのですけれど、唯一、例外があります。それは「自己」、自分自身です。自己は、唯一関係性の内に説明の必要がありません。自明です。

さて、図1に戻ります。

岡潔は心の本体は、”情”だとしました。ヲシテ文献で言う「ナサケヱダ」です。これが、即、「大宇宙の中心」だとしました。また、お釈迦様のBuddha(仏:覚)も心の本体であるとしました。そこで、「Buddha」は大宇宙の中心だと解釈するしかなくて、岡潔の情と同じと理解しました。この点が合点いかなかったのです。

「神」の字義は示す編に雷いかづちです。編の意味は祭壇です。祭壇の向こう側にある超自然的な何かを漢字でといいます。

さて、お釈迦様のBuddhaも岡潔の情について、このままでは、自己(心の本体)は、大宇宙の中心だということになってしまいます。解釈によっては、自己は超自然的な何かと同一だということになってしまいます。これは、看過できません。そうではないと言う考えならば、情について、アからワの内に説明しているということになります。その説明では、「情は繰り返し」に過ぎなくなります。どうにも具合が悪いです。Oxford Languagesによるとは、次になります。

  • なさけ こころ 人間の心のはたらき。こころ。きもち。意地。 快・不快を主とする意識の主観的側面。

情は心の本体としながら、意味を調べると「人間の心のはたらき。こころ。」とあります。これは繰り返しです。勿論、第2の心(何となく趣がわかる)という働きについての説明は意味がありますけれども、心の本体を情だと決めてかかったのは、間違いです。何故なら、言葉は関係性の内に説明することしかできないものだからです。

ですから、人々は言葉でわかっているのではないのです。(薄々、感じているから)人々は言葉によらない何かを求めるのです。だから、世界中に多数の言語がありますし、同じ理由によって、自ら信じたいものを信じていて、結果、世界中に数えきれない宗教があるのです。これまた、同じ理由によって、世界中に主義主張や思想信条、哲学があるのです。究極のところ、数学を含む言葉は繰り返しですので、説明に際限がありません。

岡潔は、心の本体である(情)を説明しようと悪戦苦闘し、唯識に嵌ったのです。唯識論には繰り返しが現れることがわかっています。ですから、タイトル通り、お釈迦様の仏教と岡潔の「情」は科学になりえないのです。

 

ただ唯一、科学になりえる方法がありました。それが契約です。契約と言う行為には、当事者として、甲・乙・丙があります。一般に自身です。乙は相手です。今回の場合、甲は神です。

ユダヤ教において、甲は神であり、乙は自己とユダヤ人たち一族です。内容として、「甲は乙に(周りの環境である)自然を信託する」という契約になります。その自然の内には、第3者である契約外の他民族、他の人種が含まれます

自己の存在を神という超自然的な何かとの契約によって説明しました。それがユダヤ教の起源です。だから、ユダヤ教は科学になりえました。日本人としては、自身は自然の部分だとの思いがあり、受け入れがたいです。

ただし、問題があります。この契約によって、甲である神と乙である自己は対等です。その関係からして、神より任された自然(と他民族、他の人種)に対して傲慢になります。これが選民思想です。 民族紛争や戦争は、すべて、主義主張や宗教間の諍いが原因であることは言うまでもありません。人口を抑制しようという発想や、人種主義などは、これの最たるものです。下記動画のフランクフルト学派の主張などは、既に倒錯しています。45分あたりから。

動画1 【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第19回「米中間選挙が時代の裂け目に?キャンセルカルチャー工作の猖獗とアメリカ内戦革命のシナリオ」[桜R4/10/15]

参考過去記事。

 

先般、多数の宗教は一つに帰納すると書きました。同じく、主義主張も終焉すると考えます。いずれも戦争を終着点にするからです。出来なければ、人類は滅びると確信します。

日本人の特性「和」をもって、世界を説得できるとは到底思えません。すべての、宗教や主義主張などの無意味さを論理的に説明して、彼らを納得させて、次なる科学を創設する以外に人類が生き残る道はないと断じます。

 

この辺りから、弧理論の領域になります。 ヲシテ文献のヨソヤコヱ(アワウタ)は、自己をどのように説明するのかです。

大宇宙の仕組みカミと言います。カミとは物の始まり(ア)事の終わり(ワ)を意味します。ごく当たり前です。ヒトがわかる範囲はそこまでです。

アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトハノモノ

ヒトハアノモノ

写真1 出展:ヒトハアノモノ日本ヲシテ研究所

ただし、アはワの如し、ワはアの如しです。これを如来と言います。ですからアは決してわかりません。(単に超自然的な何かとは異なります。) 大宇宙の中心はアとワの2つあり、ヒトは中心であるのものなのです。

  • ヒト=タマ(心の本体)+シヰ(生命維持の欲求)+肉体(処理系:記憶する働き)

言いたいのは、48音(アワウタ)は超合理的であるということです。心の本体(タマ)のものであり、タマは丸い何かくらいの意味しかありません。唯識どうのこうのはありようがないのです。

これなら、自己は大宇宙の中心から来ていることがわかります。また、自己のおかれたまわりの環境、つまり、自然を自己の所有物などと考える傲慢さもありません。自己とすべては平等で公平なのです。そして、物と事の内に説明する科学となりえます

では、宇宙の仕組みが本当にアとワの内説明できているのか。その証拠はあるのか、ということになります。 実証はまだできていませんけれども、自然は別の次元軸(E軸という)からの投影による映像(M軸という)だと考えています。これが弧理論の前提です。ご興味があれば、サイト内をいろいろな語句で検索してみてください。

神道には教義がありません。神道が宗教と言えるのかどうかです。ヲシテ文献によれば、タマの特性の一つとして、ココロバ(良心)があります。つまり、他の宗教のように、善良なることを教義によって、神仏から強制される必要がありません。岡潔の「仏教には心がない」という指摘は当たっていると思います。因みに、ヲシテ文献にあるナサケヱダは岡潔の情に等しいです。ミヤビ(ナサケヱダ&アワレヱダ)です。ミヤビによってヒトに社会性ができます。記憶を司ります。ホツマ辞典より。考察の結果、ナサケヱダが時の現在で、アワレヱダが過去だとわっています。

 

2010年よりの研究の結果について、簡単にまとめます。上記の内容と重複する部分もありますが、弧理論と整合がとれているはずです。


弧理論(Ark Theory)には前提があります。

  • ヒトの肉体に備わった器官でわかるのはである。
  • 自然は別の次元軸(E軸という。)からの投影による映像(M軸という。)である。

図1 実体が投影されて、映像(物質と運動)が現れる

結果、M軸が持つ性質がわかります。

  • 映像として現れるのは、物(物質)と事(運動という。)である。
  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 物と事は互いに規定しあって成り立つ、繰り返し(循環)、ネットワークである。

日本語の起源は大和言葉にあります。大和言葉を遡るとヲシテ文献にあるヨソヤコヱ(48音韻)に至ります。単独では意味を持たない音素(母音と子音)に物と事を割り当てたのがヨソヤコヱです。アワウタとも言います。

再掲(図1)

横軸に母音(物)を縦軸に子音(事)を割り当てています。ですから、ヨソヤコヱは互いに規定しあって成り立つ繰り返しだということです。つまり、ヒトは物や事を言葉でわかっているのではありません。この性質は、如何なる言語も同じです。この性質は数学も含みます。岡潔は次の1.のように述べています。

  1. 数は(物の)量のかげ
  2. 数は 事の 質のかげ

2.は管理人によります。つまり、「数」には2種類あるということです。物の量と事の質にかかる”かげ”が「数」だということです。 また、岡潔は”数”について、次のように述べています。

  • 自然数の1は決してわからない。

2進数で言えば、1は0でない数ですし、0は1でない数ということです。10進数でも同じです。つまり、”数”自体が互いに規定しあって成り立つ繰り返しであるということです。言葉もかげにあたる”数”も繰り返しであり、循環であり、ネットワークであるということは、E軸からの投影という仕組みに原因があるということです。

結果として、ヒトがわかる(と思い込んでいる)のは循環でしかない言葉によります。言い換えると、ヒトは、物や事を言葉でわかっているのではないということです。

では、ヒトは何をもってしてわかっているのでしょうか。

岡潔は人に心は2つあるとしました。別の言い方をすれば、人が持つ「わかる」という働きには2つあるということです。

  1. 第1の心 わけることによりわかる。理解、物の理。意識を通し言葉で言える。ヲシテ文献にある「シヰ」。欲しい欲しいのシヰ。生命維持の欲求。時の過去。記憶が関係する。動画がわかる。
  2. 第2の心 情的にわかる。何となくその趣がわかる。ヲシテ文献にある「タマ」。心の本体。時の現在。静止画がわかる。

図3 静止画がわからねば、動画はわからない。動画がわかるためには記憶が必要だから、肉体が必要になる。 ヒト=タマ+シヰ+肉体

ここで、「事:運動」の種類を示します。

  • 角度
  • 時間
  • 速度
  • 加速度
  • 圧力
  • 波動
  • 孤立波(ソリトン)
  • 情報(記憶)
  • 確率

角度から作った時間は時の過去であって、現在を含みませんし、量ではなくて事の質です。

自然科学において、物理量には基本量組み立て量がありますが、時間を含む物理量は量ではありません。つまり、自然科学は物の量と事の質が混同されています。つまり、自然科学は間違っています。別の動画でも解説した通り、熱力学的エントロピーと情報エントロピーはいずれも事の質ですから、同じ数式が現れるのは偶然ではありません。2つの数式の一致は、自然科学では理由の説明ができないはずです。

 

素粒子は100種類以上あります。素粒子は、粒子というものの波の一種であって、物ではなく事です。

また、確率は原因ではなく結果です。つまり、粒子であり波であるという実験結果は、波動関数で表現するのはダメで、量子力学は解釈の間違いであると結論しています。

 

図1のアワウタ(ヨソヤコヱ)について。仏教の如来は次のように表現されます。

  • ~の如し、~の如し、~の如し、~・・・・

この表現は合わせ鏡に例えられます。図1のアワウタは、(物の)アで始まり、(事の)ワで終わります。 アはワの如し、ワはアの如しです。ですから、如来は決して量れません。これが、a(否定)-mita(量る)如来(阿弥陀如来)です。以下、すべて一緒です。

  • 右は左の如し、左は右の如し。
  • 上は下の如し、下は上の如し。
  • 表は裏の如し、裏は表の如し。
  • 真は偽の如し、偽は真の如し。
  • 天国は地獄の如し、地獄は天国の如し。

如来現代の言葉で表現するとすれば「相対性」です。右隣の人からこちらを見ると左隣です。運動のすべては相対的です。なぜそうなるのでしょうか。どうも宇宙(空間)に中心がないからのようです。映像に中心はないということです。大宇宙の中心は別の次元軸上(E軸)にあります。

本当は左翼なのに右翼に紛れ込んだり、左翼は右翼を極左だと主張したりするのは典型です。多くの人は、物や事を言葉でわかっているのでは無いことに気付かないから、言葉遊びに嵌まるのです。主義主張など無意味です。

 

追記10/29 今まで知らなかったのですが、広島の平和記念公園にある平和の鐘の銘文に「自己を知れ」というのがあります。

写真2 出展:「汝自身を知れ」広島平和記念公園・平和の鐘の銘文に込められたギリシャからのメッセージ

当サイトでは、自分自身のことを知らず知らずのうちに「自己」を用いてきました。幾つか候補がありますけれど。「私、汝自身、我」は却下です。「己」もちょっと違います。過去記事において、「自己」を用いているのは80件ほどあります。心の仕組みと働きについて記事を書くには、適切な語句を用いることが大切だと感じます。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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