ずっと以前から、生まれた国、日本が不思議でした。日本人は何でも真似をするけれど、出来上がったものは、元とは似ても似つかない物にしてしまう。この特性はいったい何なのか、実に不思議でした。昔、揶揄されたのが現パナソニックのブランドを持つ松下電器を「マネ下電器」と言われたことがあります。その特性をして日本教と言うことを2015年ころ知りました。日本教を含む記事は27件あります。
- 2015年8月18日 聖書の原罪とは何か? 日本人には関係ない
縁あって2021年より、仏教について調べてきました。興味を持ったきっかけは、地獄極楽とキリスト教にある天国と地獄があまりにも似ているからでした。岡潔→ヲシテ文献の アワウタ (48音韻:ヨソヤコヱ)と解析した結果、書いた記事が以下です。
- 2022年11月11日 ローマ教皇に伝えたい すべての 宗教 は一つに帰納することが可能だと
- 2022年11月14日 仏教とキリスト教は 既に一つ( アワウタ )に帰納している
- 2022年11月18日 旧約聖書 「在りて在る者」と新約聖書「アルファでありオメガである」は同じ
要は、仏教の如来とキリスト教の「アルファでありオメガである」、並びにユダヤ教の「在りて在りたる者」は、いずれも同じ意味であるということです。
この3つは、既にしてアワウタ(48音韻:ヨソヤコヱ)に含まれているということです。そして、アワウタは、既にして新しい科学だということです。
ヒトの肉体に備わった器官でわかるのは物と事です。アワウタは、物の初めであるアから事の終わりであるワまでを含んでいて、アは決してわかりません。
つまり、アはワの如しであり、ワはアの如しですから、アは決してわかりません。だから、如来です。また、アルファはオメガの如しであり、オメガはアルファの如しですから、アルファは決してわかりません。そして、初めは終わりの如しであり、終わりは初めの如しですから、初めも終わりもありません。つまり、「在りて在りたる者」という意味になります。
だから、アワウタには、ヒトのわかる物と事のすべてを含んでいるということです。そして、また、次の数式が成り立ちます。Cは定数です。
- 事=物C
- 物事≧C
2つの奇妙な数式をどこかで見たことがあるはずです。1.の数式はE=mc2にていますし、2.の数式はに似ています。
- 2021年8月20日 不確定性原理の解釈「ΔxとΔp_は一つの実体の異なる面か?」
- 2021年2月22日 ハイゼンベルク、ロバートソンの 不確定性原理 と相対性理論のE=mc^2は同じ?
このアワウタが物と事のすべてを含んでいるという特性は、物と事が一つの実体の異なる面に過ぎないからです。言い換えると自然は映像です。
ですから自然は在るのです。自然は繰り返しで循環です。だから、アワウタには、ユダヤ教やキリスト教の核心をも飲み込んでしまうほどに堅牢なのです。似ていますけれども、異なるのは、「如来もありながら神道もある」という点です。何でもありは、ほかと異なります。
さらに決定的な違いがあります。アワウタが書かれているヲシテ文献には、ヒトハアノモノとあります。
写真1 出展:ヒトハアノモノ 日本ヲシテ研究所
超自然的な何か(神)と対等で傲慢な契約など不要です。神に自己を律してもらわなくても自らココロバ(良心)があるのですから。 日本人に原罪などありません。
大事なのは、人は物や事を言葉でわかっているのではないということです。何故なら、物と事は同時に決まらないからです。物と事は互いに規定しあって成り立っています。物は現在で、事(動き)は過去です。
- 物(現在) ≠ 事(動き:過去)
仏教の核心がキリスト教のそれと同じであること、そして、ユダヤ教のそれとも同じであることについて、管理人が感じた疑問について、書かれた本がありました。
112ページからの「親鸞も読んだ景教の経典」です。 画像リンク「一神論残巻盛唐」
「阿弥陀仏の教義は・・・・・・インドでつくられたものではない。中国仏教は、カシミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は、当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教と、基督教に起因する」
略
「行い(修行)による救い」ではなく、「信仰(信心)による救い」を説いた親鸞の教えも、じつは、もとはといえば基督教から来ているのです。そのために親鸞は、景教の経典『世尊布施論』をも違和感なく読み、熱心に学ぶことができたのでしょう。
略
親鸞の先生が法然です。そして法然は、中国の僧・善導(六一三~六八一年)の著作を通して信仰に入った人です。善導は、中国・唐の時代に浄土教を大成した僧侶でした。「行い(修行)による救い」ではなく、「阿弥陀仏への信仰による救い」を説いた人です。
ところが、彼がそれを説き始めたのは、ちょうど景教徒たちが中国に来て「行いによる救い」ではなく、「救い主イエスへの信仰による救い」を熱心に説き始めたときでした。つまりここに、景教徒→善導→法然→親鸞という、一連のつながりを見ることができます。
冒頭の過去記事で、「アルファでありオメガである」から、仏教の漢字用語である如来と意訳することについて、ハードルが高いと書きました。確かに、「言葉とはどういう仕組みで出来ているか?」という疑問から如来に行き着いたというのが自然(普遍)です。
それにしても、インドの仏教と、中国の基督教(景教)と、中国の仏教と、日本の仏教と言う流れを考えたら説得力があります。
しかしながら、仮に日本に文字がなかったならば、渡来した文化文明によって、以前からあった文化に上書きされるのが必定です。例えば、北米や南米の原住民など、言葉や文化のみならず、遺伝子的にも上書きされてしまった悲惨な過去があります。日本は、島国であった幸運もありながら、アワウタの堅牢さがあったからこそ、神道があり、仏教があり得たと考えます。小室直樹が仏教でも儒教でも日本に入ってくるとき、戒律を全廃してしまったと述べています。何でも飲みこむのに、日本人の持つ物差しに合わないものは、簡単に捨ててしまいます。その根源にあるのは、アワウタ以外にありません。
アワウタは、ヒトがわかる物の初めから、事の終わりまでを含んでいて、何でも飲みこむことができます。その上で、如何にも日本的なるものに変えてしまいます。アワウタの肝であるアとワは、繰り返し循環であり、決してわからないところにあります。
ヒトが、自らの肉体に備わった器官でわかる物と事について、言葉でわかっているのではありません。
だから、多くの言語がありながら、無数と言ってよいほどの宗教があるのです。また、右は左の如し、左は右の如しだから、主義主張や何々論も数多くあるのです。
宇宙方程式、神の数式、あるいは愛の方程式などいくらでもあります。なぜ、こんなにあるのか疑問に思わないことの方が問題です。
- 世尊布施論
- 新・景教のたどった道(24)唐代の漢訳書・その2『一神論』(1) 川口一彦
- 新・景教のたどった道(25)唐代の漢訳書・その2『一神論』(2)世尊布施論 川口一彦
- 京都の西本願寺の宝物 「世尊布施論」(一羽の雀さえ?)
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