意味のある 情報 と本質のない情報

以前、情報に本質はないと記しました。

弧理論での前提を考えます。

  • 人が肉体に備わった器官でわかるのは、物と事である。
  • 自然は別の次元軸からの投影による映像である。

別の次元軸を基軸(気軸)と言います。映像としての自然をM軸と言います。自然が映像ならば、その表れであるM軸上にある物と事の全ては結果に過ぎません。

図1

前提からして、次になります。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し、循環である。
  • 人にとって、”物がわかる”というのが時の現在である。
  • 人にとって、”事がわかる”というのが時の過去である。
  • 物と事は同時に決まらない。

上記の「わかる」というのは、「何となくその趣おもむきがわかる」というのであって、岡潔の言う”情的にわかる”に相当します。”わかる”には、順があります。

  1. 情的にわかる
  2. 知的にわかる
  3. 意識を通してわかる

1.がなければ一切は存在しません。2.と3.をもって理解、あるいは物の理ことわりと言います。これが知識です。岡潔は情的にわかるという心を第2の心とし、下2つを第1の心としました。【4】情のメカニズムより。

自覚するといえば情の目で見極めること。知や意では自覚できない。大体、「知、知」と知を大事にする。中国人もそうだし、印度人もそうだし、西洋人だってそうです。今の教育なんかもそうだけど、知ということについて少し深く考えてみた人、あるだろうか。私はないだろうと思う。

 知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

 それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。

 言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

つまり岡潔は、情・知・意の順に働くと言っています。話を戻します。

図1のとおり、自然が映像ならば、基(気)軸上にある実体が、投影されその結果物と事として現れるということになります。それがM軸です。そして、情・知・意の順に働くということです。ですから、あらゆる情報、つまり知識は結果に過ぎません。

だから、冒頭に示した過去記事のとおり、情報に本質はないということになります。ただし、どういう訳か映像に過ぎない人が、その投影の仕組みに気づけるということが解せないでいます。

つまり、全ては結果に過ぎませんから、あらゆる情報に意味はないし、情報に本質はありません。ただ唯一、別の次元軸を考えるところにおいての情報だけは、意味があり価値があるということになります。実に不思議です。私たち人類が映像の仕組みを理解できる(らしい)ことはとても不思議です。操り人形が操りの仕組みを理解できるのですから不思議です。

写真1 出展:豪華スターが『ピノキオ』を歌う、Beatsの最新動画:日本から赤坂沙世、Miyaviが登場

何故、このように例外を除いて、情報に本質がないかというと、物と事は互いに規定しあって成り立つ、繰り返し循環だからです。

  • 人は物と事を言葉でわかっているのではない。

岡潔の言った情的にわかるというのがなければ、一切は存在しないのです。物と事は同時に決まりませんから、物と事がわかって(から)、言葉で言えるという行為そのものが現在を含まない過去なのです。しかも、繰り返し循環ですから、情報に本質がないことは当然であるということになります。

例えば、ナントカ理論があったとします。その理論体系は論文であったり、方程式であったりします。それらの理論はすべて、紙の上に置かれたインクの文様であったり、スタティックメモリー内における電子配列であったりします。そして、その理論の本体は科学者の脳内にある生理的電気信号に過ぎないのです。※↓

図2 出展 脳科学とAI

これらの繰り返し循環である理論の行き着く先は抽象です。理論の全体、あるいは部分に繰り返しが現れたならば、抽象に入ったかもと注意すべきです。

図2を見てわかるのは、繰り返し循環であり、ネットワークであるということです。これを外のない内と呼びます。この点について、岡潔は次のように述べています。【1】2つの心より。

人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心はわたくしというものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸でワライカワセミのようにうるさい。

 それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。

岡潔は、自然科学者が考えている自然を物質的自然と名付けています。自然科学者の心は物質的自然の全部を覆うているが、それより外へは決して出ていないと言います。これを外のない内と言います。図2と比較してください。

これが国語辞書でも、国立国会図書館の全情報でも、大英図書館の全情報でも、インターネット上にある全情報であっても、はたまたビッグデータであっても全部同じです。(科学者自身を含む)地球上にあるすべてのデータは、究極的には繰り返し循環であり、ネットワークです。つまりは、人の考える事自体が外のない内なのです。ですから、より本質に近づこうと努力するならば、自然が映像であるという仮説でもって、繰り返しを回避する以外にあり得ないのです。この回避の理論が唯一、意味のある 情報 なのです。それ以外はありません。手前みそながら、それが弧理論です。世界中に多くの物理学者がいますけれど、自然を理解しようとするならば、同じ結論(弧理論)に至るはずです。

ただし、知識、意識が繰り返しだからと言って、音楽や映画をはじめとする芸術を楽しめばよいのであって、私たちの生活が味気ないものとなる訳ではありません。

 

※↑ どうも、理論物理学者は、この点を勘違いしているようです。仮に、情報に本質があるとしても、情報を記録するには必ず媒体が必要です。

なお、事(運動と言う。)には次があります。

  • 角度、時間
  • 速度、流速
  • 加速度、躍度(加速度の時間変化)
  • 圧力、気圧
  • 温度
  • エネルギー
  • 波動(時間の観念を含む)
  • 孤立波(ソリトン)
  • ソリトンの一種である素粒子
  • 電磁波、光子
  • 確率
  • 情報(記憶)

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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