力 とは何かよくわからずに来ました。この記事もわからないながら書いています。Googleでの検索では、力とは「1.外に現れる働きのもと(として考えるもの)。2.ものを動かす作用。」とあり、結果は約891,000,000件もあります。
図1
力とは何かをこれまでの考察から考えます。
人がわかるのは物と事でした。物は、陽子・中性子・電子の3種類です。事(運動Pという)は、おおよそ以下が考えられます。
- 速度、加速度、流速、風速etc
- 運動量、エネルギー
- 波、音etc
- 波動、電磁波、ソリトン(孤立波)
- 多数の素粒子、光子etc
- 圧力、熱、温度
- 角度、角度から作る時間
- 記憶、情報、知識
- お金
- 追記2/16 統計、確率
- 追記3/1 エントロピー(情報エントロピー、熱力学的エントロピー)いずれも事の質
力 はというと、事に分類されると考えます。ただし、管理人には、物理学者、寺田寅彦の”力”に関する解説が念頭にあります。寺田寅彦「物理学と感覚」より力について一部引用します。
たとえば力という観念でも非人間的傾向を徹底させる立場から言えばなんらの具体的のものではなく、ただ「物質に加速度が生じた」という事を、これに「力が働いた」という言葉で象徴的に言いかえるに過ぎないが、普通この言葉が用いられる場合には何かそこに具体的な「力」というものがあるように了解されている。これは人間としてやみ難い傾向でまたそう考えるのが便宜である。
力というのは人が持つ観念であって具体的なものではなく、人の便宜だと説いています。そして、物理学的には「加速度が働いた」と表現するとあります。これが気になって、”力”を事(運動P)の分類に入れてきませんでした。寺田寅彦については過去記事が7件あります。
その上で、過去の単極モーターにかかる作用反作用を調べる一連の実験(右欄の動画一覧にあります。)を行った結果、どうも加速度には種類があるらしいことに気づいたのでした。つまり、区別できないが加速度には種類があるということでした。だから、遠心力による加速度と重力による加速度は、相殺できる、あるいは加重できるということです。でなければ、加速度の原因たる遠心力は重力だということになってしまいます。これはどうみても間違いです。
- 2022年11月9日 なぜ、引力と遠心力は合成できるのか?
wikiにも力について、長々と書かれています。力(物理学)より。
物理学における力(ちから、(英: force)とは、物体の状態を変化させる原因となる作用であり、その作用の大きさを表す物理量である。特に質点の動力学においては、質点の運動状態を変化させる状態量のことをいう。広がりを持つ物体の場合は、運動状態とともにその形状を変化させる。
本項ではまず、古代の自然哲学における力の扱いから始め近世に確立された「ニュートン力学」や、古典物理学における力学、すなわち古典力学の発展といった歴史について述べる。
次に歴史から離れ、現在の一般的視点から古典力学における力について説明し、その後に古典力学と対置される量子力学について少し触れる。
最後に、力の概念について時折なされてきた、「形而上的である」といったような批判などについて、その重要さもあり、項を改めて扱う。
読んでみても、いまいちよくわかりません。「形而上的である」というのは、もしかしたら寺田寅彦の言ったことと同じかもしれません。ニュートン力学の項を一部引用します。
ニュートンはその著書『自然哲学の数学的諸原理』において、運動量 (quantity of motion) を物体の速度と質量 (quantity of matter) の積として定義し、運動の法則について述べている。ニュートンの運動の第2法則は「運動の変化は物体に与えられた力に比例し、その方向は与えられた力の向きに生じる 」というもので、これは現代的には以下のように定式化される。
ここで dp/dtは物体が持つ運動量 p の時間微分、F は物体にかかる力を表す。このニュートンの第2法則は、第1法則が成り立つ慣性系において成り立つ。
ニュートンは、運動量を物体の速度と質量の積として定義したとあります。物である質量(quantity of matter)と事である速度の積を運動量として定義しています。速度は位置の変位[L]を時間[T]で割ったものです。時間は物の量ではなく事の質です。
漠とした感想ですが、ニュートン力学は、力(F)の原因を時間に押し込めていると感じます。運動量も速度も加速度も量ではなくて事です。これでは力とは何かという疑問に答えたことになりません。以下、wikiにある熱力学の項と古典力学の項も量子力学の項も全部同じです。全部、力の原因を時間というパラメーターに押し込めてしまっています。確かに批判もあるようです。
(古典力学の)力は物理学の根幹にかかわるものであるが、力の定義づけは自明ではないともいわれる。アイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』において力と質量について明確な定義を与えていない。現代的な視点では、ニュートン力学における力は運動の第2法則 F = ma によって定義されるものと解釈されるが、この解釈のもとでは、比例定数の慣性質量 m が未定義な量であるため、力と慣性質量の定義が独立しておらず、不満である。そのため、力と質量の定義を分離すべきという批判がなされている。
アメリカ航空宇宙局のサイトでは「自由物体の動きに変化を起こしたり、あるいは固定物体に応力を与える基となる agent(エージェント)」といった説明になっている。
「比例定数の慣性質量 m が未定義な量であるため、力と慣性質量の定義が独立しておらず、不満である。そのため、力と質量の定義を分離すべきという批判がなされている。」とあります。つまり、質量とは何かに行き着くということです。
- 岡潔が言った通り時間は量ではなく事の質である。
- 力(F)の原因を時間を用いて他と関連付けている。(ぼやかしている?)
- (慣性)質量とは何か未定義である。
- 力と質量の定義が独立していないので「不満である」。
- そのため、力と質量の定義を分離すべきという批判がある。
自然科学の物理学は、幾つかの問題を未解決のまま、今日まで来たということのようです。かねてより自然科学は間違っていると批判してきました。
- 時間は物の量ではない。
- 時間は事の質である。
- 自然科学は、時間を用いることによって、物の量と事の質を混同している。
- 力とは何かを時間を用いて定義している。
- 質量とは何かがわかっていない。
- ヒッグス粒子は、物ではなくて事である。
質量の起源だとされるヒッグス粒子は、粒子と名付けられていますが、波の一種(孤立波:ソリトン)という事(運動P)の現れにすぎません。そもそもquantity of matterを質量と翻訳したのは、違和感があります。
- 2022年12月15日 物理学 の物質と質量という熟語はどうにも腑に落ちない
ついでながら、質量の起源であるヒッグス粒子に質量があるという自己矛盾について、東大の理学系研究科・理学部のサイトから紹介します。
素粒子の多くは質量をもっている。その質量の起源となるのがヒッグス粒子だ。(略)
素粒子は,この凝縮したヒッグス場と相互作用するようになり,いわば抵抗を受けて光速度で走れなくなった。これは質量を持ったということだ。素粒子の質量はヒッグス粒子との相互作用の強さに比例する。(略)
ヒッグス粒子自身の質量は, CERN(ジュネーブにある素粒子物理研究所)で2000年まで稼働していた電子・陽電子の衝突加速器(コライダー)LEPでの実験によって, 114GeVから約200GeV の間の狭い範囲に絞り込まれている(1GeV は 109電子ボルトでエネルギー=質量の単位,陽子の質量は約1GeV)。
ヒッグス機構(ヒッグス場が持つ仕組み)があって、この場に対応するのがヒッグス粒子だという主張のようです。質量の原因は場の仕組みにあるという理論のようです。場とは空間の部分を言うようです。自然科学において、時間・空間というのが基礎です。岡潔が言うように、時間・空間は簡単な模型であって自然そのものではありません。ついでながら、素粒子を114GeV/c2と質量に換算するのは間違いです。
2012年にヒッグス粒子が発見されました。ヒッグス粒子の質量を計測することによって、何故、場の持つ仕組みの存在が確定したのかよくわかりません。そもそも、質量の起源を探るに質量の計測で事足りるのか理解できません。自己矛盾だと感じますが。
自然科学は、空間とは何かを言っていません。(仮に)自然が映像ならば、空間は自明ではありません。つまり、自然が映像であるならば、ヒッグス粒子が発見されたといっても、質量の起源とは何の関係もありません。そもそもヒッグス粒子は物ではありません。サイト内を”境界空間”で検索ください。
話がそれました。我々が確固たるものとして学んだ物理学は、未定義な部分を残したままのものだと言うことをお伝えできればこの記事には意味があります。
弧理論の考え方からすると電磁力、強弱相互作用、重力の内にも、種類があると考えられます。
- 区別できないが、 力 には種類がある。
- 区別できないが、速度には種類がある。
- 区別できないが、加速度には種類がある。
- 区別できないが、躍度には種類がある。
遠心力と重力にかかる加速度が相殺、あるいは加重できるという事実は、とても深い意味があると考えます。物と事の区別がない科学だとこれほどまでに異なってくるのかと感じます。
因みに、躍度には4種類あります。発散トーラスがそれです。
図2
物(この場合は電子)は運動せざるを得ないのです。(これの説明はとても困難です。)M軸上に発散トーラスが現れるのは、基軸上にある実体Cに原因があります。発散トーラスとは、距離の7乗に逆比例する 力 の場を言います。
図3
この辺りの説明は省略します。日常生活において、机やテレビや本などが(観測者に対して)静止しているのは、例外中の例外だということです。(絶対零度が存在しない理由。)
追記2/16 事の項目に「統計、確率」を追加します。いずれも情報や記憶と同じ”事”です。少し前に書いた通り、確率は原理などではなく、運動Pの結果です。自然が映像ならば、確率は結果に過ぎません。物がサイコロで、サイコロを振るという運動の結果が確率です。サイコロが確率ではありません。同じく、太陽と地球が時間ではありません。天体の運動によって、地上にできる光の影の角度から時間を作ります。時間は運動の結果です。統計も確率も時間も結果(出来事)であって、過去です。過去の記録・記憶・情報であって現在を含みません。
図4
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遠心力についてふと思った。
遠心力は重力等の力の反作用です。
飛んでるボールに紐を引っ掛けたら、引っ張るから、その反作用として
反対に力が加わるのを遠心力と呼んでいるのでしょう。
例えば、高速で回転する筒の中に指を入れても、指には何の力も加わりません。
その中へBB弾を放り込んだとして、筒に触れるまでは、BB弾には何の力も加わり
ません。筒に触れたら回転方向に力がかかります、それと同時に筒に押し返されます、
この押し返される力の反作用を遠心力と呼んでいるのではないですか。
回転によって遠心力が生じるのではなく、回転を維持する力の反作用を遠心力と
呼んでいるだけだと思います。
ですから、人工衛星の遠心力は地球の引力の反作用ということになります。
だから何だと言われても困るんですが、そう思ったのです。
コメントありがとうございます。
>遠心力は重力等の力の反作用
確かに。でもコリオリの力のように見かけ上ではないとも思います。ボールを投げあげる際に、反作用は地面が受けています。それと同じということのようです。ただ、この記事を書くまでに、考察の過程があります。
過去記事に示したように、「力、速度、加速度etc」には、「区別はつかないが、種類があるのではないか?」と考えるに至った経緯があります。
ベタな表現ですけれども、「回す」と「回る」は異なる運動だとの(実験による)感触があります。具体的にはローレンツ力(単極誘導)は回るで、それ以外の回転運動(加速度運動)は回すだと考えています。
前者はマグネトロンですし、後者は、エンジンやモーター、果てはLHCです。前者はかなり高効率ですが、後者は低効率です。LHCに至っては考えられないほどに超低効率な構築物です。
歴史的にみると、「回す」という機械装置の方が経済・産業システムにおいて、金融としての効率がよいのではないかと感じます。「回す」装置は環境に悪いです。マグネトロン以外の真空管や半導体で電子レンジを作ることなど不可能です。
ですから、遠心力と重力はなぜ相殺するのかという疑問が愚かであったとしても、力や速度などに「区別はつかないが、種類があるのではないか?」との疑問を持ちつつ、慎重に考え続けるつもりです。それと、ブログに何を書いてもさして影響ありませんし。
ただ思うのは、電子・電子や陽子・陽子という同種どうしの相互作用(電磁気現象)と、陽子・中性子、あるいは陽子・電子などのように異種の物質間に働く力は不思議です。なぜ、異種の物質同士に力が働くのか疑問です。特に重力です。陽子中性子電子からなる物質間に重力が働くというのは解せないです。
本当に力は4種類しかないのかという素朴な疑問です。
それと、ある装置を解析することによって発散トーラスを見つけました。発散トーラスを組み合わせた楕円双極が、いろんな力の源泉として説明可能ではないかと考えています。発散トーラスを組み合わせた楕円双極が渦で、ベクトルポテンシャルのような、電場磁場ではない何かです。ただ、いまだに発散トーラスを数学的に表記できていません。
コメントがうまく投稿できない。画像認証エラーになったり、
投稿できたと思ったら、されてなかったり。
宇宙ステーションを想像すると、回転してるのに中の人は
無重力なんです。これは遠心力が生じてないということではないですか。引力のように全体に力が加わる場合、遠心力は無さそうです。紐の付いたボールを手で回転させる場合、力は手から紐、紐からボールの接合部、そこからボール全体に伝達していく。この場合、引っ張る反作用として遠心力が表れます。鎖をイメージすると分かりますが、引っ張って力を伝達するには引くと同時に結合部分での斥力が必要になります。引力の場合は、そういう伝達過程がなく、直接的に全体に力を及ぼします。このような場合は反作用が一切生じないように思います。宇宙ステーションに
遠心力が生じていないなら、地上の物体にも遠心力は生じていないように思います。独楽の外周に重りを紐等で接続して力の伝達過程がある場合の遠心力と地球の引力によって全体的に伝達過程無しで接続されている場合とでは状況が全く異なるように思えます。
投稿できない件、スパム対策での制約が考えられます。wordpressをよくわかっていません。ご迷惑をおかけ、申し訳ありません。幾つかNGワードを設定しているのと、リンクURLを直接貼るとスパム扱いします。認証エラーの原因となるプラグインを調べてみます。
>回転してるのに中の人は無重力なんです。これは遠心力が生じてない
まったくその通りです。ある科学者の指摘にもあったのに忘れていました。
>引力の場合は、そういう伝達過程がなく、直接的に全体に力を及ぼします。
>状況が全く異なる
その通りだと思います。不思議です。自分の思考だけで記事を書いていますので、気づかずにいました。ありがとうございます。本記事の出発点は、寺田寅彦の「物理学と感覚」でした。単極モーターの実験の経験から、永らく「接するとは何か」と考え続けてきました。この疑問の到達点が「力とは何か」でした。
ある科学者は、重力の遠隔作用と量子力学の特徴を指摘して「心に描けない」ということが問題だと言いました。言い換えますと「抽象」です。対して現象は「具体」です。弧理論での言い方は「具体(現象)は映像だ」となります。映像ならば近接作用はあり得ません。現在の物理学は人がイメージできる具体より、数学の記述を優先します。その結果として、物理学者は力の伝達(作用反作用)に近接作用を採用し基礎としました。
実は、私は近接作用をイメージできません。「接するとは何か」と考え続けてきた結果、近接作用はありえないとの結果に至っています。その延長上に「境界空間の仮説」と境界空間を説明する模型があります。
小川さんは「接する」をイメージできますか?私は出来ません。10^-35mならば、接していないですね。では、10^-37mや10^-80mでは?ある科学者の「心に描けない」は物理学の本質にかかわると認識しています。重力と量子力学の間には、自然が映像かどうかという問題に関する共通点があるように思います。具体(物)と抽象(事)について、サイト右検索欄にて「大きさのスケール」を検索すると出てくる図が参考になるかと思います。力とは何なのでしょうか。映像ならば、力の伝達過程を遠隔作用とする仕組みは考えられるだろうと思います。
接するを考えてみるに、接するというのは厳密には
あり得ないですね。何らかの斥力で押している状態だと考えられます。近接作用というのは斥力だといえると
思います。ただし、押すにも押されるにも個体としての
結合状態いわば引力が効いている状態でなければならないので、引力と斥力の連動によって事が起こっていると
考えられます。
>結合状態いわば引力が効いている状態でなければならないので、引力と斥力の連動によって事が起こっている
確かに。だからこそ、力とは何かを考えてきました。
私が言いたいのは、(弧理論の前提:自然が映像である)ならば、近接作用はないということです。逆に、”接する”をイメージできないのは、自然が映像だからという考えに納得しています。ある科学者が言った”心に描けない”は重要だと考えています。
話はそれますが、空間において、運動が相対的である仕組みがわかりました。実はすごく簡単でした。ある科学者が言った「(地球の)科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していない」という意図がわかったということです。いずれ記事にする予定です。