以下の動画を掲載しました。
今回のシリーズ(No.10から)のNo.13の動画です。弧理論による社会科学の一つの側面についての解説です。日本語の起源である アワウタ は以下を含んでいます。
- 仏教の「如来」
- キリスト教の「アルファでありオメガである」
- ユダヤ教の「在りて在る」、「I Am Who I Am」、「I Am that I Am」
この動画で、Buddhaがどういった様子なのかがわかりました。ヲシテ文献にあるヒトの心の本体であるタマと等しい、あるいは近いとわかります。
- タマ≒岡潔の「情」
- Buddha≒善導大師の「覚」
これまでの考察と若干異なりますが、動画内で違いがあることを説明しています。
先日、ある縁で京都国立博物館へ行きました。現在、親鸞聖人生誕850年の法要が行われていることから、同博物館でも「親鸞の生涯と名宝」展が行われています。
展示で興味深かったのが「浄土論」でした。記憶は定かではないのですが、親鸞の孫の筆とありました。その中に「世尊」の文字がありました。世尊とはイエス・キリストのことです。以前、世尊布施論(福音書の一部)のことを記事に書きましたけれど、仏教の地獄極楽は、景教(原始キリスト教)の天国と地獄からきているようだとのお話しです。親鸞聖人も世尊布施論を学んだだろうとのお話しです。
- 2022年11月21日 日本は十字架の国ではない アワウタ は何でも飲みこんでいく
展示物である浄土論の写真を撮る訳に行きませんので、ネット上にある別の資料を示します。
写真1 出展:浄土論(著者:菩提留支、刊行年:慶安元刊)(売却済みになるとリンク先は消えます。)
- 菩提流支(ぼだいるし)・・・・北インド出身の訳経僧。サンスクリットのbodhiruci の音写、「菩提留支」とも音写する。北魏の都、洛陽で訳経に従事。大乗の経論を30部余り翻訳する。また漢訳して「道希」とも呼ばれる。
著者の菩提流支でわかる通り、6世紀ころ、 シナ大陸にいた菩提流支によって漢訳されたわけで、その写本が京都国立博物館に展示されたという流れのようです。
つまり、景教は西方よりシナ大陸へも渡っただろうし、インドへも渡っていただろうということです。ただし、決定的な違いがあります。インドにもシナ大陸にも日本にも原罪はありません。(天国と地獄)に対して(地獄極楽)が成り立つためには原罪が必要です。どうも、ある方の言うところによると浄土論は読んでもわからないとのことでした。その理由として考えられるのは原罪の有無だろうということです。興味深いです。
管理人の想像では(たぶん)地獄極楽という浄土信仰を仏教に取り入れるには、煩悩が必要なのだと考えます。原罪の代わりの煩悩です。
日本人に原罪を植え付けるには、「われよみがえりという蘇我氏系統である聖徳太子(厩戸皇子)が人々の代わりに磔刑に処せられれば成り立つだろう」となります。つまり、日本にユダヤ教的な神話と併せて、厩戸皇子の処刑があれば、天国と地獄は成り立つという塩梅です。史実としては、そうなりませんでしたけれども。
兎に角、 アワウタ を起源に持つ日本語を話す人たちにとって、仏教やキリスト教、ユダヤ教も飲み込んでいくということです。
- 2015年8月18日 聖書の原罪とは何か? 日本人には関係ない
- 2023年2月6日 日ユ同祖論 は間違い 日本はユダヤを飲み込んだ
大事な事。ユダヤ教にある原罪は、アダムとイブがリンゴを食べたことから始まりました。このリンゴ(原罪)は、恐らく「言葉」です。アダムとイブが言葉を操るようになったことから、文明が発達し始めたとともに、人々の欲望から罪悪が生まれたと考えてよさそうです。
岡潔の「情・知・意」の順に働くのですから、「情的にわかる」にとどまれば人は、不幸なく暮らせますでしょうけれど、同時に文明は起こりません。ここに知的に発達するならば、「知的にわかる:知識」=「言葉で言える」訳ですから文明が発達します。同時に「意:意識」となりますから、欲求の果ても近づいてくるわけです。これが「罪」である訳です。生命維持の欲求そのものを否定はしませんが。一定の歯止めが必要です。
アワウタにこの原罪はありません。物と事を明確にわけた作りになっていますから。その理由を次回の動画のテーマにしようと考えています。
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