”時”が持つ性質の一つに「時間」があります。時間とは何か?と考え始めた切っ掛けは、ある科学者の言葉でした。「私は時間のドレイになるつもりはない。」考え始めたのは2014年頃です。
以来、時間について考え続けて記事を書き続けてきました。サイト内を「時間」で検索すると495件もあります。現在の記事件数は883件です。時間とは何かをまとめると以下です。
- 時間とは、過ぎゆく運動の記憶に基づいて、人が抱く観念。
時間は記憶ですから、時の現在を含みません。時間は、自然科学において7つの基本単位(基本量)に含まれていますが、時間は量ではありません。
図1 時間は過去の記憶であって現在を含まない
このような考え方に至る切っ掛けとなったのは、岡潔の言葉でした。講演録【2】自然科学者の時間空間より。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。
時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。
が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。
岡潔によれば、 時とは何か という疑問について、一番深く考えたのは道元禅師だと言います。道元禅師は”時”の性質の一つで、過去のうちに「時は過ぎ行く」という属性があると言います。その一つの性質を取り出して、それを観念化したものが時間だと言います。
時については、もう一つ性質があります。同じく【5】情の特色より。
時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。
時には2種類あります。過去と現在です。新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくと言うことは限りなく繰り返されると言います。
問題になるのは、新しい現在とは何を示しているのでしょうか。それと古い現在、つまり過去は何を示しているのでしょうか。2つが揃って「時は過ぎ行く」ということになります。
では、時の「時は過ぎ行く」ということの仕組みについて、これまでの考察を踏まえて考えます。
人がわかるのは物と事です。これまで物と事を整理してきました。弧理論では”事”を運動Pと呼んでいます。物と事の関係を図示します。
図2 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない
順序として、人は物がわかり、動き(事)がわかります。つまり、「物がわかる」が現在で、「事がわかる、動きがわかる」のが過去です。
これまでにわかっている物と事を書き下します。
- 物には量があり、事には質がある。
- 数には物の量にかかる数と事の質にかかる数がある。
- 物:陽子・中性子・電子の3種類のみ、それには長さと質量がある。
- 事(運動P):速度、加速度、流速、運動量
エネルギー
波、音、波動、孤立波(ソリトン:素粒子)
電磁波、光子
圧力、熱、温度
角度、時間、
知識、記憶、情報、統計、確率
エントロピー
お金 etc
時間は運動(角度)から作ります。因みに自然科学には物と事の区別がありません。これはこれで問題です。直近でわかったこととして、電磁気現象は物と事の間を橋渡ししているらしいことがわかってきました。
人は、物がわかり、事がわかります。図2の仕組みから言って、物と事は一つの実体の異なる面に過ぎません。以上をまとめます。
- 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
- 物と事は互いに規定しあって成り立つ、繰り返し(循環)である。
2,について、言葉の仕組みから判明しています。新しい現在が物であり、古い現在が過去、つまり事(運動P)であるわけです。そして、物と事は互いに規定し合って成り立つ繰り返しです。
これまでに、日本語の起源である大和言葉の大元は、アワウタ(ヨソヤコヱ)であることがわかっています。
図3 出典:日本ヲシテ研究所 物は5つの母音に対応し、事は10の子音に対応する
その仕組みは、物と事を5つの母音と10の子音に対応させる表意・表音文字です。アワウタ(ヨソヤコヱ:48音韻)は、発音と意味を併せ持った言葉である訳です。
つまり、物がわかり、事がわかってから初めて言葉として表すことが出来ます。ですから、言葉は過去であって現在を含みません。これまでの考察により、言葉とは次になります。
- 言葉は互いに規定し合って成り立つ繰り返し循環であり、ネットワークである。
ここで書き言葉である数学も含みます。例えば、何かの数式に「t=0」を代入したからと言って、数式が現在を表していると言うことは、決してありません。時間は現在を含まないからです。
因みにビッグバン宇宙論で”宇宙の始まり”を論じる話があります。しかし、宇宙の始まりとして、その理論式に「t=0」を代入しても何も決められません。(発散か収束してしまう。)なぜならば、数学を含む言葉は互いに規定し合って成り立つ繰り返しだからです。数もまた互いに規定し合って成り立っています。
- 事の質である時間に0を置くと、物の量は決まらない。
物の量も事の質も言葉や数字に置き換える、言い表せるということ自体、現在を含みません。
さて、言葉で言い表す際に、物と事は繰り返しです。時の現在と過去に置き換えて言い表せます。
- 現在と過去は一つの実体の異なる面に過ぎない。
- 現在と過去は互いに規定し合って成り立つ繰り返し。
ここで、図1を思い出して下さい。新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返されます。
物と事は、互いに現在と過去として過ぎ去って行く繰り返しです。
これは、因果律とでも言って良いと考えられます。(ここで、量子力学での解釈(統計、確率)は上記、事の種類に入っています。ミクロでの現象は図2に組み込まれていると考えています。一つ前の記事の追記をご参考に。)
これが「時は過ぎ行く」という仕組みです。 時とは何か という疑問の一部謎が解けた思いです。それでも、疑問は残っています。
- 2022年4月23日 時間感覚 はどうしてできるか?(時の現在と過去はE軸-M軸での相互作用に帰する)
物と事、現在と過去について、互いに規定し合って成り立つ繰り返しというのは、仏教の如来の仕組みに似ていると感じます。我々は、言葉の仕組みから逃れられません。
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