自然科学・ 物理学 は”事の理”に偏っている

1)岡潔は「わかる」には2つあるとしました。【4】情のメカニズムより。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

2つとは、情的にわかる知的にわかるです。知的にわかるを理解と言います。物の理ことわりを追及する学問を 物理学 と言います。(わかるの語源はわけるです。)

 

今回は、2つ目の「わけることによりわかる」についてです。

2)さて、人がわかるのは、です。物には量があり、事には質があります。弧理論では事の質を運動と呼んでいます。これまでに仕訳けた物と事を示します。

  • 物:陽子・中性子・電子の3種類(3個)だけで、それには長さと質量がある。

事(運動)は次です。

  • 速度、加速度、流速、運動量
  • エネルギー
  • 波、音、波動、孤立波(ソリトン:素粒子)
  • 電磁波、光子
  • 圧力、熱、温度
  • 角度、時間
  • 知識、記憶、情報、統計、確率
  • エントロピー
  • お金 etc

角度は事の質です。角度から作った時間は物の量ではありません。物と事がわかれば、に置き換えられます。物の量にかかる数と、事の質にかかる数です。

そこで、理解できるのは、物と事の組み合わせです。

  1. 物と物
  2. 物と事
  3. 事と事

物理学 は文字通り、物と物あるいは物と事の理ことわりを探求する学問です。例えば2.では作用と反作用の法則であったり、力の合成です。

図1 出展:速度の合成と分解

 

3)ところが、100年前くらいから、 物理学 は3.に示した事と事での理ことわりに偏ってきました。事の理です。これを抽象といいます。数学などはその典型です。

図2 出展:素粒子物理学の最前線

クオークなどの素粒子は物ではなく事(波)の一種です。標準模型は、力の伝わり方近接作用として表現しています。自然は映像だとする立場の弧理論から言えば、近接作用はあり得ません。図2のような相互作用の表現は間違いです。

写真1 出展:第68回ノーベル物理学賞 ルイス・ウォルター・アルヴァレズ「水素泡箱による素粒子の共鳴状態に関する研究」

例えば、泡箱で捉えたのは、軌跡であって素粒子そのものではありません。反応過程は写真そのものですが、図1にある作用反作用を図2のように扱うのは間違いです。何故、粒子であり波でもあるとする量子の扱いを図1と同じに扱えると考えたのか根拠を知りたいです。

 

4)上のような記事は、受け入れがたいとされるかも知れませんが、彼らの創りだした数式と我々がいる自然の仕組みとは(はっきり言うと)無関係です。弧理論で言えば、電子は物ですが、光子は事です。電子と光子は一つの実体の異なる面に過ぎません。

図3

ですから、古典物理学と量子力学はつながらないのです。粒子であり確率波というのはイメージできません。これはモデルとして決定的な欠陥です。

観測された結果彼らの考えた仕組み、それらと本当の仕組みとの間に齟齬があると考えます。何故なら、自然は映像だからです。自然を見た目そのままに記述しようとすると途轍もなく複雑で抽象的にならざるを得ないのです。

図4 出展:素粒子物理学入門

図4に示す数式は彼らの脳内にある抽象に過ぎません。

同時に、人は物から離れることなど決してできません。実は、理論を数学として受け入れられる人たち(物理学者)の抽象的な数学理論でさえ、物から離れられません。脳内の生理的電流(電子の運動)として物と事の内にあるのです。

何故、心に描けない抽象を数学に置き換えられるのか。彼らが優れているからです。図4のような数式を思い描いていることと、図1を扱っているのを同列だと勘違いしているのです。優れているから、抽象化へのハードルが低いのです。参考記事です。

5)物と事の間には循環入れ子がありますので、複雑さに際限がないことがわかります。これに気づかぬ内は、解決に至ることはありません。本当の意味での理解は深いです。時に数学の難問に挑むと心を病む学者が出る原因は、言葉が循環だからです。言葉には数学を含みます。

今、気づいたのですが、素粒子事の質なのに量子とはこれ如何に。という訳で、世界の出来事はすべてにおいて、抽象化の一途をたどっています。これはとても危険な状態です。世界は心を病んでいます。

 

以上を仏教に例えます。

  • 如来:電子は光子の如し。光子は電子の如し。

仏教はなかなかに凄いですね。図2や図4のようなものとはレベルが違います。

  • 電子と光子は一つの実体の異なる面に過ぎない。

弧理論による電子・光子の定義と仏教の如来は、意味として合致しています。本当に凄いです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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