発見や新しい知見を得るにはいくつかの方法があることがわかっています。
- 岡潔 「わからないものに、まだわかってないものに、関心を集め続ける。」「Xに関心を集めつづける」「精神集中をつづけていると、いつしか努力感を感じない精神統一になっている」
- 個の不思量底、いかんが思量する
- G・アダムスキー「弛緩と関心」
管理人は、随分と昔から3.の方法を知っていました。
研究を始めてから岡潔の「努力感を感じない精神統一」と言う表現を知りました。以下、参考記事です。
動画 17創造と発見の仕組み(3)創造と 発見 は「弛緩と関心」の外からやって来る
- 2021年10月25日 「個の不思量底、いかんが思量する」と「 外のない内 」の関係
- 2021年8月16日 岡潔 の伝えたかった「創造」
数学の分野にフィールズ賞があります。次の記事を見ていると受賞者が 発見 について興味深いことを述べていたのでメモします。 発見 の方法として4つめに入ると考えます。
「数学嫌いこそ読んでほしい! フィールズ賞を受賞した4人の数学者のインタビュー」から、「相転移の確率問題を解明したのユーゴ・デュミニル-コパン氏」のインタビューの一部です。
質問者:「ひらめき」が降りてきた瞬間はありますか?
デュミニル-コパン氏:はい、今でも鮮明に覚えています。その日はごく普通の日でした。
友人であり長年の共同研究者であるタシオン氏と雑談をしていると、突然、当時私が取り組んでいたものとは全く別分野の式証明が頭に浮かんだのです。
このときの証明は後に、現在統計物理学の教科書に記載されるほど有名になりました。
この話で注目すべきは、無目的ですが知的な言葉のラリーが、まったく新しい発見につながったということです。
それ以来、私は味をしめてしまい、無目的な議論を積極的に行うようになりました。
幸い、無目的な議論はその後何度も、新しい「ひらめき」をもたらしてくれました。
私にとって研究とはグループ体験です。
仲間と一緒に仕事をすることで得られる知的な体験が、私がこれまで手掛けてきた研究成果の大部分を占めています。
下線は管理人による。氏は「無目的だが知的な言葉のラリー」、「無目的な議論」によってひらめきをもたらしたと応えています。
管理人は、研究に際して、常に弛緩と関心を心がけていますが、実際のところ思考のほとんどを復習に使っています。その途上において「気付かされる:他力」のです。
「わからないX」をある程度言葉にできるならば、家族に聴いてもらいます。(家族にとってはいい迷惑ですけれども)これは上記の無目的な議論に相当するとも言えます。併せて、ブログに書き綴っています。
残念なことに、ブログ記事以外にまとまったものはありません。弧理論を一言で言い表せるにもかかわらず、詳細はあまりに広くて深いです。
- 自然は別の次元軸からの投影による映像
一つのテーマについて、何十件もの記事を書いてきました。年月が経つにつれて、テーマの内容は次第に詳しく簡潔に書けるようになってきます。しかし、全体をまとめたものは存在しません。かろうじて、動画サイトにある程度まとめてあります。隣のタブ(動画での解説)にありますのでご参考に。
年単位で見ると研究は進んでいます。今年も2月末に真のエネルギー値の意味がわかりました。これは大きいです。
余談です。
上の動画の解説です。例として、火星と金星を取り上げます。地球から見た火星の運動(自転公転etc)と金星から見た火星の運動は全く異なります。しかし、自然(M軸)が別の次元軸(基軸)からの投影による映像ならば、火星が持つ基軸上の値(真のエネルギー値という。)は、観測者が誰であろうとも不変です。これは近い銀河から見ても変わりません。運動の相対性を考慮に入れて、真のエネルギー値は変わらないというのが凄いところです。E=mc2は正しいように見えて実は間違っています。
追記 ヒトに心(わかるという働き)は2つあります。
- 意識を通し言葉で言える。わけることによりわかる。理解、物の理。
- 意識を通さず言葉で言えないがわかる。
上の1.について、人は物と事を”対”としてわけられるから言葉で言えます。しかし、言葉は互いに規定し合って成り立つ繰り返し循環・ネットワークです。意識知識でわかっているのではなくて、2,でわかっているのです。新しい知見や発見は2.により成されます。
- 関心を集めるうちに、言葉で言えないが、しかし、何となくわかる。
- 何となくわかる段階を経て、(岡潔が言った、”情的にわかる”を経て)
- 物と事が”対”となる。こうして既知の知識ネットワークに組み込まれる。
- それから、言葉で言える。これが知識。
1.の機能しか持ち合わせていないAIは、基本的に発見の仕組みも働きもありません。”知”は、ネットワークですから、「すべてを覆っているが、それより外へは決して出ていません。」これを外のない内と言います。自覚はないけれども、ここに知識の限界があります。発見はこの限界を超える手段です。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。