阿弥陀仏のアミダと 阿弥陀 如来のアミダは、全く異なる

Buddha(仏)と如来関係をわかりやすく説明するに苦心しています。仏も如来も”量れない”という意味では同じですが、そのわからなさ(量れなさ)には、決定的な違いがあります。

如来のわからなさは、論理的な結論として決して量れませんし、仏のわからなさは、何もかもを越えた(論理を越えた)わからなさがあります。2つのわからなさに違いを見つけるヒントに「 阿弥陀 」があります。

阿弥陀とは

阿弥陀仏や 阿弥陀 如来と言います。 阿弥陀 とは、サンスクリット語の「量れない:無量」という意味の漢字への当て字です。

  • コトバンクより「阿弥陀はamitabha(無量光),amitayus(無量寿)の音略。」 a-mita(否定-量る)→(量れない)→阿弥陀

仏や如来がどう量れないのかというお話です。そのわからなさの違いです。

 

仏とは(他資料との比較)

一般にブッダ、あるいは仏陀といいます。仏陀とは、お釈迦さまのことを「ブッダ」と呼びますが、サンスクリット語で「目覚めた者」という意味のようです。しかし、人を指す言葉ではありません。

a-mita-Buddhaであって、決して量れないBuddhaです。”目覚めた者は量れない”というのでは、意味が通りません。そのほかの資料では、どうなのかを比較します。

善導大師は、Buddhaを漢字の音に当てて「仏」としました。その意味を漢字で「覚」と名付けました。管理人が調べた心の仕組みを図で示します。

図1 各資料による心の仕組み

注)昨年の段階で、善導大師が示したとおり、仏(Buddha)=覚としていますが、その後、Buddhaの部分が「覚」であることがわかっています。「Buddha>覚」となります。次の項目で説明します。

図でわかるとおり、人はすべからく本質的な「わかる」という働きを持っています。岡潔はこの心を無私の心と言いました。これが第2の心です。その心をと言います。また、岡潔の情も心の働きの部分であることがわかっています。

ヲシテ文献においては、心の本体をタマと言います。比較すると肉体につながるすべてを下支えしているという意味において、善導大師のに同じです。つまり、自や感は、特別の人のみがもつものでは無いということです。誰もが持つ心の働きであって、それを情やタマあるいは覚と名付けただけです。

では、覚という働きを含むBuddhaとは何かということになります。

仏(自然は自己の現れ)

人がわかるのは物と事です。「物がわかる」であり、事、即ち「動きがわかる」です。弧理論では、事を(運動)と呼んでいます。

図2

順番で言えば、(物がわかる)が現在で、(事がわかる)(動きがわかる)が過去です。(過去がわかる)には、記憶が必要です。心の本体には、記憶の働きはありませんので、必ず肉体が必要です。

物がわかり、事がわかって、初めて言葉で言えます。つまり、言葉で言えるのは、過ぎ去った後の過去です。何時何分という時報は、過ぎてからしかわかりません。

さて、物と事は必ず””となって現れます。必ずです。男と女は対です。善と悪は対です。神と悪魔は対です。右と左は対です。表と裏も対です。言葉で説明できます

ところが、唯一「対」にならない存在があります。それが自己です。自己の存在は説明の必要はありません。その存在は、自身が銘々わかっています。では、自己と”対”となるのは何なのでしょうか。自己と対となる存在は、自己以外のすべてです。それは、自然界そのものです。

  • 自己の表れが自然界

自然界は決して量れませんし、決してわかりません。これがBuddha(仏)です。

 

信仰とは何か

宗教には、教義、経典、住職、牧師、教師等の指導者があって、信仰があります。では、信仰とは何かです。どうも、信仰とは自己肯定の裏返しであるようです。自然界は自己を肯定してくれません。決して量れません。自己を肯定してくれる何かは、何処にあるのでしょうか。

それは、父母であったり、兄弟であったり友人であったり、社会での評価であったりします。それ以外に求める肯定が信仰であろうと考えます。

先日の記事において、お釈迦様は「天上天下唯我独尊」と言ったのもうなずけると書きました。つまり、自然界(自己の表れ)は凄いのだから、自然界と”対”となる自己も凄いと肯定したのは、そのとおりと感じました。

ところが、それだではありませんでした。

写真1 出典:

漫画家赤塚不二夫氏による天才バカボンに登場するバカボンのパパになる台詞です。

図3 出典:バカボンのパパは天才なのだ!

バカボンのパパの常套句に「それでいいのだ」があります。庶民の庶民であるバカボンのパパの自己肯定は「それでいいのだ」です。

考えてみれば、お釈迦様の出自は王族です。その生まれから来る自己肯定が「天上天下唯我独尊」だったのです。ほぼ絶望の域にある人にとっての自己肯定は「仕方ない」であるはずです。

つまり、自己肯定は自然界での状況によって変わります。だから、自己肯定の裏返しとなる信仰は人それぞれで、様々となる訳です。

 

如来の仕組みのわからなさ

如来は字のごとく「~の如し」です。映し鏡に例えられます。あるいは鐘と撞木でもあります。

  • 右は左の如し、左は右の如し、善は悪の如し、悪は善の如し、表は裏の如し、表は裏の如し、神は悪魔の如し、悪魔は神の如し・・・・

現在の言葉で言い表すならば、相対性です。図2に示したとおり、物と事は対となって現れますので、その比較において常に相対的です。

知っての通り、BLM騒動やLGBTなどが物議を醸しだすのは、物と事に絶対となるものが無いからです。だから、意図的に事を反転させて用いる人達が出てきます。これが世の混乱を招く原因です。世を攪乱する人達は、言葉遊びをします。

では、如来のわからなさは、どうなのかです。参考になる言葉があります。

  • 岡潔「自然数の1は決してわからない」

1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11・・・という数において、1は決してわかりません。この場合は、0~9の文字(記号)を使う10進数です。簡単に2進数1桁の場合を考えます。

  • 1は0でない数、0は1でない数

2つに1つですから、1は決してわかりません。互いに規定し合って成り立っているからです。桁数が多くなろうと、何進数であろうとかわりません。その起源は、図2に示した物と事の現れ方にあります。つまり、物と事が揃った上で、物と事に意味づけることで言葉に出来ますも言葉の一つです。

  • 善とは悪でないこと、悪とは善で無いこと

善とは決してわかりません。これは岡潔が言った言葉と同じです。物と事を意味づけして初めてわかります。意味づけしない「1」は決してわからないのです。

つまり、岡潔の言葉は、如来の仕組みと同じであるということです。如来とは、言葉の仕組みの上で、「論理的に決してわからない」ということです。これをして阿弥陀如来と言った訳です。

 

仏のわからなさと如来の仕組みにおけるわからなさ

如来のわからなさである阿弥陀如来に対して阿弥陀仏は、「自己の現れとしての自然界は決して量れない、決してわからない」という意味でのわからなさです。そのわからなさには決定的な違いがあります。論理の帰結としてのわからなさ理屈づけ出来ないわからなさの違いがあった訳です。

論理の帰結としてのわからなさ(阿弥陀如来)については、ゲーデルの不完全性定理を思い出します。

 

余談:外のない内

物と事を意味づけして言葉で言えます。言葉は互いに規定し合って成り立つ繰り返し、循環・ネットワークです。岡潔は自然科学者が考える自然について、次のように述べています。

  • 岡潔「物質的自然のすべてを覆っているが、それより外へは決して出ていない」

これを外のない内と呼んでいます。それは如来の仕組みのように論理の帰結としても、自己の表れとしても同じです。言葉で言えること自体が外のない内です。

数学における∞や無限大も仏教における無量も外のない内です。

図4 脳はネットワーク(すべてを覆っているが、それより外へは決して出ていない)

処理系である脳自体が繰り返しを含むネットワークだからです。数式を含む論理や理論を含む全ての事(運動)(情報:記憶)と”対”となる媒体(物)は生理的電流です。物は電子で事(記憶)が電流(電子の運動)です。つまり、思考自体が外のない内です。

 

阿弥陀仏と無量寿は整合する

無量寿という言葉があります。ここまで考察してきて、仏が自己の表れであるとした結論と整合していることがわかります。

図5 出典:無量寿

手元にある正信偈を解説する本には無量寿(いのち)との説明があります。

岡潔は、仏教には心がないと問題視しています。【8】仏教の問題点

日本民族は、日本は1つの特徴があるんですね。それは『心』という言葉ですが、仏教には心という言葉が無い。心という言葉が無いんです。それから中国にも無いかもしれない。聞いたことがない。欧米には無い。この心理学的心を心と云ってますから。中国のはもう少し深いがこんなもの、心というようなものではない。赤ん坊にむき出しに現れてるものが心です。心理学的心が現われてるんじゃありません。

 大体仏教が ― 仏教は随分いろいろなことを教えてくれますが、仏教には今云った通り心という言葉が無い。これはだんだん説明しますが、心という言葉が無い。驚くほど無いんです。いくらなんでもそれではと思いますが、思うでしょうと云ってもあなた方思やしないでしょうけど。心のことなんか考えたことがない。仏教はそれじゃどうしてるかと云うと、例えば禅のように、師匠から弟子へ心をそっくりそのまま譲り渡す、移し入れるというようなやり方でその欠けたるを補ってるんですね。言葉に出しては何も云わない。云おうにもそんな言葉、全然無いんです。

管理人の結論として、仏教に心はありませんけれども、いのち(寿)として言い表していることがわかりました。

  • Buddha→仏→阿弥陀仏→無量寿(いのち)

前項の「自己の表れが自然界である」という言い方を別の言い方にしますと「寿(いのち)の表れが自然界である」となります。ただし、岡潔の情の表れが自然界だとは言い切れませんので注意です。ヲシテ文献での言い方をしますと「(心の本体である)タマの表れが自然界である」となります。

何をどう表現しても、外のない内(すべてを覆っているが、それより外へは決して出ていない)を越えることはありません。

難しいですが、「自己の表れが自然界である」という結論をして、Buddaと言い表すと、阿弥陀と無量寿(いのち)は整合がとれています。仏陀を「目覚めた者」と言うのとはかなり様子が違います。

 

まとめると、それほど簡単では無い

どうしても難しいです。項目の順序も内容も難しくて、とても仏と如来の仕組みの関係を簡単に説明できません。前回の記事にあるように、こんな内容を誰かに説明するには、擬人化したり、方便(二河白道の譬え)を使うしか無いかも知れません。参考記事をあげます。弧理論は広くて深いです。しかも互いに関連していますから、部分の説明は泥沼化する傾向にあります。

 

感想

仏教に対する管理人の感想です。これまでに見てきたように浄土論は成り立ちませんし、信仰はそれぞれです。すると苦境に立つ人には「仕方ない」しか残りません。阿弥陀仏が「仕方ない」の裏返しであるならば、希望がないことになります。ちょっと違いますよね。

個人的には、希望はあります。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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