唯識論も多元宇宙論も繰り返しを含んでいる点では同じです。
図1 出展:並行宇宙は実在する
参考リンク:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_20/4/notes/ja/04suto.pdf
これまでに、申し上げてきたように、論理に繰り返しが現れたならば、その論は行き止まりです。これを抽象と言います。
- 2021年7月7日 唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。
- 2023年12月21日 現代の 宇宙論 に「心」は含まれているのか?
改めて、知識、意識が繰り返しであることを説明します。
言葉は繰り返し
これまで、言葉は繰り返し、循環でありネットワークだと説明してきました。当然、これには数学を含みます。試しに、貴方がお持ちの国語辞典をご用意ください。
図1 出展:新明解国語辞典 第七版
何でもいいです。思いついた語句について、調べてみてください。解説に出てくる語句を順にひいていくと、最初にひいた語句に戻ってきます。必ずです。言葉は循環だからです。ですから、如何なる辞書のページ数も必ず有限なのです。これが、言葉が閉じている理由です。インターネットも国会図書館の蔵書も同じです。知識や記録や記憶、情報は必ず閉じています。
岡潔は【1】2つの心において「物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」と述べています。これを外のない内と呼びます。知識、意識は閉じているからです。
物と事は繰り返す
どうも、物と事は繰り返しながら、時は進んでいくようです。
図2
岡潔講演録【5】情の特色より。
情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。
図2のように、「新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される」訳です。これで、時の性質がわかります。
弧理論の前提である「物と事は一つの実態の異なる面に過ぎない。」ということを鑑みるならば納得できます。これは、因果律そのものです。
物と事が揃って、初めて言葉で言える
「物がわかる」が現在です。「事がわかる」が過去です。2つの「わかる」が揃って、初めて言葉で言えるようになります。ですから、言葉は既に過去です。現在を含みません。だから、時間(と言う数)は現在を含まない過去なのです。
意識を通して「わかる」ということ
岡潔は「情→知→意の順に働く」としました。知的にわかるというのは、言葉で言えるということです。知識とは、物の初めから事の終わりまでを「わける」ということによった結果です。当然、繰り返しを含みます。唯識は、「識」以外に実在しないという考え方ですが、知識、意識の内ですから、間違いです。識を階層にわけることに意味はありません。
例えば、1と0の間をわけると実数ということになります。有理数、無理数などいくらでもわけられます。
「わける」による限界
知識は繰り替えしを含む、外のない内ですから、物の初めから事の終わりまでを「わける」ことに限りはありません。行き着く先は抽象です。その意味で、唯識論も多元宇宙論も繰り返しを含んだ、外のない内ですから、如何に緻密に詳しかろうとも論に終わりはありません。というか、何もわからぬままです。
回避
繰り返し論による抽象化を回避するには、「自然は別の次元軸からの投影による映像」だとする以外にありません。そうすれば、当面の間、繰り返しを回避できます。それでも、繰り返しが現れたならば、そのときは・・・・
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