研究に入ってすぐの頃から、”時間とは何だろうか”という意識がありました。そこから、因果関係について考察を続けてきました。”因果”という語を含む記事は8件あります。
- 2012年2月14日 (天動説:地動説)と(素粒子論:弧電磁気論)
直近においては、時制との関係を書いています。
- 2024年1月6日 物理学 は既に 抽象 である
- 2022年5月17日 時制と仏教の 因果
気づいたのですが、物と事とは、 因果律 の関係そのものだということです。岡潔は情の性質を次のように述べています。【5】情の特色より。
情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い
物と事、時、 因果律 、統計、確率についての考察です。
時間
「時間という計量的な物は無い」という言葉は、既にわかっています。運動の結果としての角度をそのまま時間としています。角度は物の量ではありません。事の質です。弧理論では事を運動Pと呼んでいます。運動Pより時間を作ります。直接にはわかりません。
(12進数による webアナログ時計)
12進数を表すに0~9とA及びBを用いました。 アナログ時計の文字盤には、10時→A、11時→B、正午→1012進を置いています。
空間
「空間は量的に質的にありません」という語については、既に境界空間(界面空間)という仮説を出していまして、下のように模型を示しています。
gif1 泡と波 (境界面は、量的質的に存在しない)
gif2 ウ(渦) (渦は、物と事の性質を併せ持つらしい)
因果律
「自然は別の次元軸(基軸)からの投影による映像(M軸)」だという前提に立つならば、時間も空間も説明は可能だろうと言うことになります。では、因果関係は、どう説明するかです。
次図にて説明します。
図1 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない
- 物と事は互いに規定し合って成り立つ繰り返し、循環である
その上で、「新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される」訳です。
図1の物と事を時の関係に示します。
図2
それで、「新しい現在」と「古い現在(過去)」の差分Δが図1の事(運動P)だと考えます。現在は過去の影響の結果です。現在は古い現在に変わります。それが「新しい現在」へとつながります。これが限りなく繰り返される訳です。そういう意味で未来はありません。
- 物と事の繰り返し
- 如来 因は果の如し、果は因の如し
この繰り返し(因果律)は、仏教にある如来そのものです。
統計と確率
これで、「自然は映像だ」という立場に立つことによって、空間、時、因果、並びに物と事の説明が可能のようです。
- 統計、確率は結果に過ぎない
大事なのは、物と事の現れ方には、二通りあるということです。
図3 長さのスケール
マクロ(10-10m~1020m)くらいの範囲においては、物と事は、必ず”対”になって現れます。その現れ方は、統計に従います。1020mより大きな領域については、まだよくわかりません。
ミクロの領域においては、事(運動P)の現れ方は、確率的になります。これが量子力学として扱われる世界です。量子の関係は、映像で言えば、画素未満です。
写真1 映像はオレンジ
- 「オレンジの皮をむいて食べる」 物=オレンジ 事=むく、食べる
マクロの世界では、統計が支配的となります。
ミクロの領域での現れ方は確率的です。
写真2 画素とオレンジは無関係
画素に相当するのが、ミクロの領域です。現れ方は確率的です。ある科学者の言葉です。
地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。
映像という仕組みの上において、確率は結果です。マクロの世界においては、統計によります。統計も結果です。
写真3
もちろんマクロの世界においても確率はあります。
- サイコロを振る 物=サイコロ 事=ふる
確率は結果です。
遠隔作用の仕組み
自然が映像ならば、因果律は、物と事の繰り返しによって起きると考えられます。
- 物と事の繰り返し
図1によれば、因果の繰り返しは、基軸とM軸との往復ということになります。これは、永らく考えてきた「接するとは何か」という疑問に回答を与えています。
- 因果律が成り立つためには、遠隔作用にならざるを得ない
gif3 newton's cradle
「接する?」瞬間だけを拡大します。
写真4
画素と「接する」は関係ありません。映像だから「接する」ということに意味があります。「接する」というのは、結果に過ぎないことがわかります。
物と事の区別
これまでに整理した物と事です。物には量があります。
- 物: 陽子中性子電子 長さ 質量
事(運動P)には質があります。
- 事:速度、加速度、流速、運動量
エネルギー
波、音、波動、孤立波(ソリトン:素粒子)
電磁波、光子(電磁気現象には疑義あり)
圧力、熱、温度
角度、時間、
知識、記憶、情報、統計、確率
エントロピー
お金 etc
ここに、「接する」というのは、事の質であることがわかりました。すると、熱、温度や圧力も同じく事の質であることがわかります。
素粒子物理学は間違い
結果的に、近接作用として表された素粒子物理学は間違っていることがわかります。これは上に示したある科学者の言葉に同じです。
科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。
観測の事実と仕組み(理論)は同じではないということになります。
追記 1/9
「新しい原因が古い原因に変わる。その古い原因が結果になっていくということは限りなく繰り返されます。」
どうも、「物→事→物→事→」として、因果は、基軸とM軸の往復ということになりそうです。往復は、振動と同義かと思います。つまり、因果によって、波ができるのではないでしょうか。
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