仏教の阿弥陀如来の「阿弥陀」は、サンスクリット語の”a-mita”です。”mita”は「量る」で、”a”は「否定」の意味があり、「如来は量れない」となります。
如来の量れなさを一言で言えば、「論理的帰結として量れない」となります。それは、岡潔の「自然数の1は決してわからない」にほぼ等しいです。サイト内を「外のない内」で検索すると多数記事があります。
一方で、 阿弥陀仏 のa-mitaは、本質的に量れません。これは弧理論の前提である「自然は別の次元軸からの投影による映像である」から出てきます。前提を書き下すと次です。
- アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる
この「つながり、もたらし、生じさせる」働きを「カミの仕組み」と言います。そして、ウは、渦(物と事)を意味します。ここで、物と事は、アとワの差分だと言うことです。
このカミは、シナ大陸より渡ってきた漢字の「神しん」とは、意味も中身もまったく異なることに注意してください。
人がわかるのは、物と事であって、現象はすべて差分だと言うことになります。物と事は必ず、対となって現れます。だから、如来の仕組みとなるのです。
- 如来: ~の如し、の如し、の如し・・・・
例外的に、自己と対となるのは、自己以外、自己を取り巻く全部、即ち、自然界です。これをお釈迦様は、Buddhaと呼びました。
ですから、Buddhaという表現だけでは、自然が差分だと言うことがわかりません。このことは、Buddhaが科学になり得ないことを意味します。Buddhaと言うだけでは、自然界のことを指していても、その全容は漠としてわかりません。これは科学ではありません。
人がわかるのは、差分だけで、しかも繰り返し、循環ですから、Buddhaの全容がわかり切ることは決してありませんし、科学になり得ません。
対して、カミの仕組みであるア・ウ・ワは、その仕組み自体が人にとって科学です。自然界の全容がわかり切ることはありませんが、それでも科学です。その最初の一歩が、日本語、ヤマト言葉の起源であるヨソヤコヱ(48音韻)です。七五調に詠んだアワウタです。
図1 出展:四十八音図表 日本ヲシテ研究所
- アワウタは、物のはじめから事の終わりまでを論理立てて意味づけする
人がわかる物と事の範囲内を意味づけできます。だから、カミの仕組みは科学です。それでも、外のない内に限られます。
補足します。
自然科学は、二元論に基づきます。二項対立と呼んでもいいです。まず、神いて、神が人間を創りました。神と悪魔、楽園(天国)と地上(地獄)、罪と罰、という二項対立から出発します。その根拠に神との契約がありました。神は人間に契約の履行を強いています。これが神を信じる人間に課された道徳であるようです。すると、信仰を無くした人間は、道徳が失われます。残るのは、拝金主義(かね信仰)です。
その点、如来は二項対立の仕組みを示しているのみで、人に価値を強いることはありません。以下を参考まで。
- 2022年5月30日 宗教の限界 宗教が言葉の数ほどあること自体が限界を示している
- 2023年10月25日 阿弥陀仏のアミダと 阿弥陀 如来のアミダは、全く異なる
- 2023年11月15日 神 は如来の内にあり、神は人々に価値を押しつける
- 2023年9月28日 ヲシテ文献にある「カミ」と 神 の違い
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