弧理論は、自然が映像だとする仕組みを説明するものです。自然現象が映像ならば、現象は角度と何らかの関係があるはずです。つまり、現象はどこかで12の倍数となるはずです。考察するに、 自然は映像 であることの傍証が幾つかあります。ここでは、傍証を5つ挙げます。
弧理論の前提
- 自然は別の次元軸(基軸)からの投影による映像(M軸)
図1
- 物と事(動き、運動P)は一つの実体の異なる面
- 物と事は互いに規定し合う繰り返し
1)音階は12
動画1 なぜ音階は「12」なのか?数学で解説(ときどきプログラミング、Python)和音の不思議を三角形で解説!ピタゴラス音律と平均律など音楽を数学でわかりやすく解説。1オクターブが12音階の理由。
なぜ音階は12なのかを数学的に解説しています。音階に沿った音を聴いて、美しいと感じ、心地よいです。
2)標準模型(物質粒子は12種)
多数観測される素粒子群を整理したのが標準模型です。
図1 出展:標準模型
標準模型での物質粒子(クオークとレプトン)は12種類あるとされます。ただし、基本粒子の一つである電子を除いて、その他の素粒子群は、粒子と名付けられていますが、物ではなく事(孤立波)の一種です。
弧理論の考え方によれば、素粒子群は事(波の一種、孤立波)であり、図1の投影角が浅くなれば、さらに多くの素粒子が観測されるはずと予想できます。つまり、今後、超巨大素粒子加速器が建造されれば、多数の素粒子が観測され、その整理のために、標準模型は、12の倍、24種類に分類することになるはずです。そのような分類に意味を見出すことはできません。単に図1において、投影角が浅くなったに過ぎないからです。
3)時間は12の倍数
当サイトでは、時間とは何かについて、散々考察してきました。
- 岡潔「運動から時間を作る。直接わかるものではない。」
写真1 携帯型日時計
例えば、時間は、太陽と地球の運動にかかる角度から知ります。そして、60秒で1分で、60分で1時間です。24時間で1日です。角度から作る時間は、12の倍数です。
アナログ時計
時間は角度そのものです。
3)1年は12ヶ月
地球の公転周期、即ち、365日と4分の1をなぜ12ヶ月としたのでしょう。これについては、ヲシテ文献を参考に考察しています。
- 2016年2月18日 なぜ1年は12ヶ月なのか? フトマニ図 とホツマツタエから分かること
- 2019年3月1日 数学 は「ヲエモノ」への入り口
上の記事を書いた時点では、「ヲシテ文献にある「ヲエモノ(魔物)」とは何かわかりませんでしたが、下の記事を書いた辺りで気づいたのは、ヲエモノとは、抽象だとわかりました。
心地よいかどうかは大問題
1)の音階の解説でわかるのは、ヒトが聴いて美しい、あるいは心地よいのは、12に区分した特定の周波数とその組み合わせ(和音)である訳で、それ以外の音、あるいは組み合わせは、心地よくないということです。心地よくないと言うことは、ヒトが「感じる」という基本的なところで、物と事の組み合わせに意味づけできないということです。抽象を「感じる」という表現に置き換えると心地よくない、不快、無意味、カオス、混乱、ノイズです。
抽象とは、恐らく2つの心の乖離をもたらします。抽象化は倒錯に至り、不健康を意味します。何故ならば、物と事に意味づける言葉は、互いに規定し合う繰り返しで、ネットワークです。ですから、ともすれば価値は反転し、最後は何が何だかわからなくなるからです。
音楽理論で存在するだろう256ビートが心地よい人など居ません。
- 2022年4月5日 現代物理学 は、音楽で言えば256ビート
4)日本語の元は48音韻
日本語の起源となる、ヤマト言葉あるいは和語の元は、ヨソヤコヱ(48音)です。
図2 出展:日本ヲシテ研究所
図を弧理論で解釈します。5つの母音と10の子音に物と事(動き)を割り当てています。そのうち、2つ抜けていますので、全部で48音韻で、12の倍数です。
冒頭で示したとおり、物と事は互いに規定し合う関係にあります。日本語の起源であるヨソヤコヱは、(自然が映像である)ならば、とても合理的だと言えます。単純に言えば、日本語で話す、聴く行為は、心地よいということです。
日本語がなぜ、これほどまでに堅牢なのか疑問に思っていました。
- 2018年8月27日 なぜ 日本語 は外乱に対して堅牢なのか
- 2020年9月4日 日本語 の話者がいなくなれば、人類は滅びる
考察の結果、日本語話者がいなくなれば、人類は滅びるだろうという結論に至りました。
かつて、アメリカに統治されていたフィリピンはタガログ語です。固有の文字はなく、ほぼアルファベットを用いて記述しています。占領されたならば、南北アメリカの先住民のように独自の文化は根絶やしにされるか、フィリピンのようにタガログ語と英語の2つが公用語となるか、どちらかだと考えられます。
フィリピンにおいて、高等教育で使われる教科書は英語のようです。高等教育を母国語で受けられるのは、日本くらいです。先人たちのすごさがわかります。
物と事の区別がない言語
日本語以外の言葉には、物と事の区別がありません。「わからないものをわけることによりわかる」とする還元主義において、日本語以外の言語で、自然を科学すると、上に挙げた幾つかの傍証に気づかず、抽象へ突き進むことになります。そういった科学の先端領域では、意味を見いだせなくなり、遂には、現象はカオス、ノイズとの区別が出来なくなるはずです。既に、量子力学の領域では、誰も解釈できない状態(抽象)に入りつつあるようです。
- 物の量と事の質の区別がない自然科学は間違い
- 物質? 質量?
5)不確定性原理(確率は物と事の現れ方による)
不確定性原理は、「 自然は映像 」である傍証ではないかと考えます。小さな領域においては、現象は確率的に現れます。その現れ方が不確定性関係です。
- 2021年2月22日 ハイゼンベルク、ロバートソンの 不確定性原理 と相対性理論のE=mc^2は同じ?
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