矢作直樹 氏の『中今』 自然科学に欠落しているもの

先日の記事において、 矢作直樹 氏の「中今」のことを少し書きました。

 

動画1 『中今を生きる』 磐座の存在から未知なる次元の可能性を考える 虚心坦懐の感性を|矢作直樹×小名木善行

動画2 人類という存在は無くならない 未来のことを考える前にまずはしっかりと自分自身の生き方・行動から|矢作直樹×小名木善行 

 

これまで、岡潔の言葉より、自然科学の問題点や、自然科学の成り立ちについて考察してきました。その中で、くどいように数学を含む知識・言葉は現在を含まないと記してきました。

ところが、これがよく伝わっていないらしいことに気づきました。それをうまく説明できるのが中今です。

図1

図の白丸現在で、すべての因となります。知識、言葉、意識は過去です。これがわかってもらえません。矢作直樹氏の中今は、この白丸の部分です。【5】情の特色より、岡潔の説明を引用します。

情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

この白丸の部分が岡潔の言った「情的にわかる」です。言葉で言えない、意識を通さず、何となくその趣が「わかる」です。これが無ければ、一切は存在しません。

そして、この中今から発見や創造やってきます。これが仏教にある他力、即ち「気(キ)づかされる」です。

この他力を気づきとか、ひらめき、あるいはインスピレーションと言いますが、この他力の特徴自己の責任ではないという点があります。中今で起きることは間違いありませんけれども、それがいつ、どこで、どのように起きるのか、自分でもわかりません。

しかし、他力には条件があります。

  • 弛緩と関心

リラックスして、何かわからないものに関心を集め続けるという状態です。一方の自然科学には発見・創造の仕組みがありません。緊張と集中を強いられる数学を用いるからです。注)ただし、数学を否定していません。適切な使い方があるはずです。

図2 のヲシテ、シル、他力、気(キ)は同じ

ヲシテ文献にあるのヲシテ、岡潔の情や仏教にある他力、あるいは日月神示(ヒフミ神示)に頻出する「気(キ)」と自然科学を比較しました。この図に、中今を入れるならば、上段に入れることができます。時の現在に生きるということの意味をお考えください。

 

自動車の運転に例えますと、自然科学者の緊張と集中は、アクセルをふかしながら、同時にブレーキを踏み込もうとしている状態です。本当はリラックスすべきなのに、その道具としての数学は緊張と集中を強いるからです。これでは、効率が悪いどころか、車が壊れて自滅します。

対して、弛緩と関心は、アイドリングの状態です。それでいて、エンジンを停止しているのではありません。いつでも受け入れができる状態です。これが他力です。のヲシテの極意です。

 

それと、動画1において、矢作直樹氏は、「未知なる次元の可能性を考える」と述べておられます。これは弧理論の基本的な考え方と合致します。

  • 自然は別の次元軸(基軸)からの投影による映像(M軸)

ヒトがわかる物と事は、映像です。その仕組みは以下です。

図2 物と事は互いに規定し合う繰り返し

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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