最近感じたこととして、管理人がやってきたことは、 統合 だということです。幾つかの資料、文献を参考に、それらに共通する何かを見つけることです。これは普遍性を意味します。場所、時間関係なくずっと変わらない何かです。誰がどうしたなど無関係です。その内に流れる普遍の中に人として留めておくべきものがあると感じます。
何々の専門家という人が解説するのを観ていると「この人は、実は何もわかっていないのではないか」と疑うことがあります。あまりに小さい領域に専門化しすぎて大枠がわかっていないように思うのです。このようなことになった原因は、物と事の区別がついていないからです。
動画1 【成田悠輔が推薦】宇宙と超弦理論!6歳にわかるように説明してみよう!【マルチバース】
例えば、超ひも理論(超弦理論)があります。wikiを読んでも管理人にはよくわかりません。
図1 超弦理論とブレーン世界
それでも、説明に用いられる図はわかります。ひもの両端をAとBとします。A-Bが単一の経路でつながっているのが”開いたひも”です。A-Bが異なる経路でつながっているのが”閉じたひも”です。
勘違いに至る原因を順に書きます。ちょっとややこしいですが、前提と結果があります。
- 前提
- (物理学者は)物の量と(事の質:運動)の区別に気づかない
- 時間は運動から作る
- だから、時間は物の量ではなくて、事の質に過ぎない
- 彼らは、E=mc2を用いて素粒子の質量を求めた(と勘違いしている)
- ここにE:エネルギーは時間を含んだ事(運動)
- c:光速度は時間を含んだ事(運動)
- m:質量は物の量
- つまり、物の量と事の質を等しい(=)としている(これが根本的な間違い)
- 結果
- 素粒子は粒子と名付けられているが、孤立波(ソリトン)である
- ソリトンは、波の一種
- 波は物ではなく事(運動)
- 事の一種に過ぎない素粒子の質量を求めた(と勘違いしている)
前提は、「物理学者は物と事の区別に気づいていない」から、結果として「物理学者は、波の一種である素粒子の質量を求めた(と勘違いしている)」となります。
素粒子論の延長上に超ひも理論があります。
その上で、別の話をします。何度も取り上げた話ですが、繰り返します。
これは何かと問われたとします。
- これはスプーン
スプーンとは何かと問われます。
- スプーンとは洋風の匙
匙とは何かと問われます。
- 匙とは粉や液体を掬い取る小さな道具、スプーン
粉とは何か、液体とは何かと、次々と問われますので、出てくる単語を4回くらい国語辞典でひいて、言葉の関係図を作りました。
図2 匙とスプーンの関係図
この図に特徴的な部分があると気づきます。
- 匙はスプーン
- スプーンは洋風の匙
冒頭のAとBの関係図がそのまま図2の中に現れています。つまり、物理学者は複雑な数式の中に事の質に過ぎない素粒子の関係を究極まで突き詰めた結果得た(イメージ)が図1です。この結果は、国語辞典から一歩たりとも出ていません。彼ら物理学者たちによる200年以上の努力の結果です。
これが数学を含む言葉が持つ限界です。この状況は孫悟空とお釈迦様の掌を思い出します。200年以上努力しても1ミリも出ていません。(今回、この銅の置物を注文しましたw。)
それで、専門とされる分野だけを見続けているとこういった結果に気づかないのです。やはり、現時点において求められるのは、 統合 だと感じます。
ついでながら、2種類ある超ひも(閉じたひも、開いたひも)の関係は、E=mc2の関係に置き換えることができます。
図3
図3を次のように言い換えることが出来ます。
- 質量はエネルギーに転換するし、逆にもなるが、これを光速度が媒介する。
この解釈は間違いですし、超ひもが10-33mの大きさというのも間違いです。(この点はもう少し検討が必要です。) 一言で言えば、素粒子物理学も超ひも理論も他の宇宙論も彼らの頭の中だけでにある抽象です。原因は物と事の区別がないからです。
- 2022年6月14日 超ひも 理論 超ひもは「如来」に同じ
もう一つ違う話をします。
ここ何年かテレビドラマをよく観ます。海外のドラマもよく観ますが、えげつなくてついて行けないことがあります。全般的に、西洋のドラマについて、制作側が病んでいると感じます。どこか不健康です。時に気味悪いと感じます。
中にはよく出来たドラマがありますので、続きを見ていくと舞台や話題がどんどん小さくなってきます。それこそ、重箱の隅を突っつくような話になってきます。これが専門家ということなのですが、実にくだらないです。
- Dr.HOUSE・・・・名内科医の話。原因不明の病に苦しむ患者と名医ハウスの話。
患者は人ですが、まるで機械のようです。高熱や発疹、痺れ。痙攣といった症状に対して、病名を挙げて、対応する薬などを検討します。
- 症状-病名-薬、治療法の組み合わせを模索する
どれだけの組み合わせを知っているかの競争に過ぎません。薬の投与などで上手くいくと完治するというドラマです。なぜ薬が効くのかもわかりませんし、組み合わせを知っているからどうなの、としか感じません。
医学について岡潔は次のように述べています。【4】何故見えるのかより。
身辺のことのうち、一番手近なことからはじめると、私、今、眼を開いています。そしてみなさんが見える。目をふさげば見えない。目をふさげば見えないというのは、物質現象です。しかし、眼を開けると見えるというのは、これは生きているから見えるのであって、生命現象です。
この眼を開ければ何故見えるのか、ということについて、西洋の学問は何一つ教えてくれていない。西洋の学問のうち、この方面を受け持っているのは、自然科学、さらに詳しくいえば医学です。医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。
しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。即ち、これも物質現象の説明にとどまる。眼をふさぐと見えないというのと同じことです。
それでは、人は、何故眼をあけると見えるのか。大抵は、これについて疑問すら抱かない。知らないということも知らないのです。これは、無知というより言いようがない
- わけることによりわかるとするに、行き着く先は 統合 失調ではないか。
知的にレベルが高いというのと何かが違います。
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