箱庭のような 物理学

前回の続きです。これまでに、自然科学の問題点について考察してきました。(”問題点”という語を含む過去記事は99件です。)

考える切っ掛けとなったのは、岡潔の言葉からです。

  • 【1】 このままでは人類は滅びる・・・・

    一番怪しいと思えるのは自然科学です。それで自然科学から調べます。大体、自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。だから、かようなものは学問とはいえません。これは単なる思想です。

  • 【2】自然科学者の時間空間・・・・自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

    時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

    時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

    が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています

  • 【3】五感でわかるもの・・・・

    物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。

    それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

    五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

    で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。

    ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。

    これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。それで、これに名前をつけて物質的自然と、そういうことにします

 

これまで、時間とは何かについても随分と考察しました。その上で、空間とは何かを考えました。これらの考察は弧理論の考え方を基礎としています。

弧理論の概略は次です。ご参考まで。


図1 物と事は一つの実体の異なる面

ここから、すべてが出てきます。があるから空間がわかりますし、物の運動から時間を作ります。空間の模型も出来ました。

gif1 境界空間の模型(本当に実在するのは水と油)

境界面は量的質的にありません。同様に空間は存在しないけれども、物があるから空間がわかります。


 

さて、自然科学の時間空間は、簡単な模型です。岡潔はこの模型を物質的自然と名付けました。そうして、出来たのが様々な宇宙論です。

図2 超弦理論-20世紀の2大理論は統合できるのか

それで、最初の模型に戻るのですが、時間とは何か、空間とは何かの議論が(ほぼ)成されずに来ています。簡単に9次元だとか10次元だとかの話になってしまいます。

これらの説明を観ていると箱庭を思い出します。検索したら次のような写真がありました。

写真1 箱庭によるアートセラピー

必ずしも 物理学 が病んでいるとは言いませんが、どこか小さく固まっているように見えます。最初にヒトの心が来るべきだと感じます。

動画1 ある理論物理学者の生活(圧縮版)A scientist’s life – condensed

自然科学のそれは何処まで行っても簡単な模型であって、数式は自然そのものではありません。抽象です。彼らの頭の中にのみ存在します。しかも、数式には自分自身は含まれていません。そのことにすら気づいていません。彼らが扱っているのは箱庭ですから、箱庭には彼らの自然観というか、宇宙観が見て取れます

 

いつから、 物理学 は自然現象から離れたのでしょうか。(多分)単独で取り出せないクオークの存在を認めたときからではないかと考えます。一つのハードルを越えたのです。以降は、現象より数式を優先しました。物理学の箱庭感はここから来ているようです。

  • E=mc
  • 誤り「物質はエネルギーに転換するし逆にもなる」
  • 正しくは「物質とエネルギーは一つの実体の異なる面に過ぎない」
  • エネルギーも光速度も時間を含む
  • 時間は運動から作る
  • 運動とは事である
  • 3行目を物と事に置き換えると「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」になる
  • これを言い換えると「物と事は互いに規定し合う繰り返し、循環である」

それで、上の数式(E=mc)を極限まで小さくすると次式になります。

ここに、プランク定数「h=6.626×10-34Js」、「h=4.134×10-15eVs」ですが、「Js、eVs」のsは「秒」です。ここに運動から作った時間が含まれています。つまり、プランク定数にも箱庭がついて回っているということです。前回の10-33cmもここから来ています。(次元は合っているが、意味は違っているかも知れません。)

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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