信仰と依存

最近、「依存」について考えています。

信仰 とは何か。依存とは何が異なるのか、についての考察です。

かなり前に、シャーマニズムについて考えました。

図1 文化とシャーマニズム

縄文時代の終わりには、渡来人の登場によって、文化は低下し、代わりにシャーマニズムが台頭しました。以来、シャーマニズムは現代まで続いています。そして、最近の状況を見ると悪魔崇拝に至っているように思えます。シャーマニズムとは、神頼みとでも言えそうです。代表的な神頼みとして、お金があります。

図2 現代の形代(かたしろ)はお金

 

信仰と依存について、参考になる伊藤貫氏の動画がありました。

動画1 【質問コーナー】視聴者からの様々な質問に答えました(伊藤貫)

伊藤氏の言葉から記事と関係する部分を抜き出します。

  • 人の思考レベルには3段階ある。(3つの
  • 1.哲学(philosophy) 2.学問:パラダイム(paradigm) 3.目的(policy)
  • (政治経済などの)物事を考える上で、より高い価値判断基準、あるいは使命感持った行動をするめには、宗教的な信念、あるいは哲学的な信念が必要である。

「思考レベルには3段階があるが、現代人の多くはパラダイム、あるいはポリシーのレベルでしか物事を考えることができない。目先の利益を求めるだけである。」と述べています。本当に高い価値判断をするためには、宗教的な信念、あるいは哲学的な信念が必要だと説いています。

 

問題は、宗教、信仰、哲学、依存、信念、価値の関係です。過去の考察を順を追って書きます。


1.最初にあるのは「働き」です。わかるという働きがわかる(動きがわかる)という働きです。

図3 時の流れ

2.「物がわかる」が中今(唯一の現在)で、以後は過去です。「事がわかる」には、記憶が必要です。 3.物がわかり、事がわかったら音韻(母音・子音)に割り当てます。これが言葉です。 4.それから、物と事の意味がわかります。 5.そうして、物と事の価値がわかります。 6.最後に意識してわかります。

伊藤氏は、物事を意識してわかるという段階からしか説明がありません。つまり、価値判断するずっと前に言葉があり得て、それより前に物と事がわかる必要があるという過程が抜けています。

 

それで、信仰についてです。「(何か)在る」と信じる訳ですが、これまでの考察によって、「在る」ことは確かですが、これが何なのか決してわかりませんし、量ることも出来ません。これをBuddhaと言います。

  • ヒト=タマ+シヰ+ウ
  • タマは心の本体
  • シヰは生命維持の欲求
  • ウは物と事

物と事は必ず”“となります。例外はありません。タマを自己としますと、自己ととなるのは、自己以外のすべてです。このすべてを自然界と言います。これが仏教で言うところのBuddhaです。

  • a(否定)-mita(量る)-Buddha(阿弥陀仏:仏は量れない)

何かあるのは確かです。少なくとも「働き」はあります。これがなければ、一切は存在しません。


 

ここまでで、その存在を信じざるを得ないですから、これは信仰です。これが、宗教的な信念です。※1 そして、一番深い思考ですから、哲学的な信念になり得ます。ただし、この仕組みが真善美に相当するかは不明です。

話を戻します。

それで、浅い価値観(2.学問:パラダイム(paradigm) 3.目的(policy))でしか判断できないというのは、信念が欠けているということです。伊藤氏はより深い思考による価値判断によって、信念をもってより良い結果を導けると述べます。

 

  • シャーマニズム(神頼み)≒依存

何かに依存するということは、依存先から、何らかの見返りを期待することにつながりそうです。それは神頼みに同じか、近いものがありそうです。例えば、本人は信仰のつもりでも、代わりに何かを期待するのは、依存でしかありません。

 


※1

上記、Buddhaは仏教での信仰になります。しかし、日本人の根底にあるのは、より普遍的な何かです。Buddhaは日本語の元となるヨソヤコヱ(48音)に含まれています。以下、ヨソヤコヱの説明です。

物と事がわかり、それぞれを母音子音に割り当てます。これがヨソヤコヱです。

図4 四十八音図表 日本ヲシテ研究所

ヨソヤコヱを五七調に詠んだのがアワウタです。

 カハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤ

アワウタは、アで始まり、ワで終わります。意味として、物の初めであるアから、事の終わりであるワのすべてを覆っています。しかし、物と事はになっていると同じく、互いに規定し合う繰り返しです。

アはワのようで、ワはアのような関係にあります。

  • アはワの如し、ワはアの如し

これを如来の仕組みと言います。つまり、アは決してわからないし、ワもけっしてわかりません。決定的なのは、次です。

  • ヒトハノモノ

ヒトの持つ2つの心(タマとシヰ)は、アから来ています。その仕組みは日本語の元となるアワウタに含まれていますし、その元となるアは決してわかりませんワも決してわかりません。これはBuddhaに等しいです。だから、日本に仏教は受け入れられたと考えて良いようです。ここまでで、Buddhaにもにも人格性はありません。

そして、日本人が持つ自然界への崇拝は、これを自然道と言います。それに対して西洋で言うところの神(GOD)には人格があります。だから、日本にキリスト教は根付かないと考えられます。

図5 

 

追記 「自己 対 Buddha」 という関係をみると仏教は一元論的ですから、一神教的に見えます。しかし、ヨソヤコヱ(アワウタ)は、アとワの関係にありますから、二元論に見えて、随分と異なります。結果的にアワウタは、何もかも飲み込みますから日本的です。簡単に言えば、仏教を人格的に捉えたらキリスト教です。それで、縄文時代からの歴史を振り返ると神道にも日本仏教にも景教の影響を受けていることは確かです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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